心は空気で出来ている

空気を読むな、呼吸しろ。

今年一番の読書体験

 すんごいひさしるびにブログを書く。久しぶりすぎて「ひさしるび」とタイプミスするほどには久しぶりなのだ。

 少し前から、何か書きたいような気分ではあったのだが、ようやく重い腰ならぬ重い指が上がった。わざわざ”重い指”とか書かなくても”重い腰”自体が比喩表現なのだから訂正する必要もないのだが、これは指ならしに文字を無駄打ちしているだけ。

 スマホブコメやツイートなどの短文しか書かない短文おじさんになっていたので、キーボードで長文おじさんの感覚を取り戻すには時間がかかるかもしれない。感覚を取り戻す前にまた書かなくなる可能性もある。

 さて、タイトルに「今年一番の読書体験」と書いたからには、今年の内に書いておかねばならない。「三体II 黒暗森林」はかなり面白かったけれど、ラストの「三体III 死神永生」はまだ読めていない。9月に図書館で予約したのにまだ順番が回ってこないのだ。忘れられているのではないかと疑ったりもしたが、今は電子的に管理されているのだし、よもや忘れられることはあるまい。来年に持ち越しである。

 ここまで書いて、ようやくキーボードを打つ指が温まってきたところだぜ。そうそう、YouTubeで久々に「AKIRA」を観た。やっぱりストーリーは面白くないけど映像はすごい。あれは絶対「エヴァンゲリオン」に影響与えてるよな。思わせぶりなまま何も明かされずに終わるところとか。あの時代にネットがあったら、エヴァなみに考察廚が量産されたことだろう。そういえば分厚い絵コンテ本持ってたけど売っちゃったな。

 ようやくここから本題の読書体験について書く。

 中学生の頃、「幻魔大戦」の影響で真理や悟りといったことに興味を持ち始め、50を過ぎる今に至るまで細々とその探求を続けてきて一向に悟りを開かない私が、ある意味「サードインパクト」を受けたのが、今年出会ったこの一冊「”それ”は在る」だ。

 思考者は存在せず、ただ思考だけがある。この事実への理解が、ある種の閾値を超えた感じがする。自分という意識は、これを書いている人間に宿った幽霊なのではないか、という考えはずいぶん前からあったが、「思考との自己同一化」という言葉に、目からウロコが落ちた気分だった。

 何がどう変わったのかわからないが、とにかく認識が何らかのブレイクスルーを起こした感じ。明らかに理解が進み、深まった。自分が何も知らないということをさらに深く理解したように思う。そして意識と思考を区別し得るということもわかった。

 この衝撃を受け、さらに理解を深めるため、すでに5回は読み直している。

 そうして湧いてきた疑問。「知る」とは何か。知識とは、記憶とはどういった”こと”なのか。自分という意識、自我が幻想であり、思考者は存在せず、思考が自動的に起きる”現象”ならば、記憶することも、思い出すことも自動的に起きるただの”現象”だ。それはわかる。すべては”法”に従って動いているだけで、それ以上でもそれ以下でもない。辛かろうが苦しかろうが嬉しかろうが楽しかろうが、全ては”法”の支配下で起きる”現象”にすぎない。

 人生における様々な出来事を経験している自分は、過去を通してのみ現在を知る。今を知ることはできず、ただ精神に投影された過去を見ている。自我は記憶=過去=知識で作られた反射的プログラム、いわばイベントドリブンなプログラムであり、自分はその挙動には一切介在できない。自分が記憶し、思い出し、知識を使っているというのは錯覚であり、その錯覚、すなわち「思考との自己同一化」もまた”法”の一環である。

 思考=記憶=過去は、確固たる事実ではなく、改変され得るものである。それもわかる。すでに起きたことはもう過ぎ去っており、記憶の中にあるだけで目の前にはないからだ。記憶も確定したものではなく変化し得るもので、そのうえ自分がそれをどうにかすることもできない。となれば、一体記憶とは、知識とは、何かを「知る」こととは、何なのだろう。もはや自分には、自分がこれまで認識していたような意味では、何ひとつ「知る」ことができない、という結論になるではないか。

 このことは、裏を返せば「自分」が存在しないということの証左でもある。存在していない「自分」が、何かを知り、思い出し、知識をコントロールすることなどできるはずがない。「自分」そのものが錯覚であるならば、「自分」が何かを成すことができるわけはない。自分は「シックスセンス」におけるマルコムなのである。

 ここで、22年ぶりに新作が作られた「マトリックス」を思い出す。当時の私は、いつか自分もネオのように世界の幻想を見抜き、真実を知ることが人生の目的だと思っていた。あれから22年経った今、この本「”それ”は在る」を読んで考えた末に気づいたこと、それは「自分自身がマトリックスだ」ということだ。自我であり思考者たる私は、ネオではなくマトリックスだったのだ。それを当然の結論として受け止めている。

 悟りや真理や、そういったものに興味のない人には、何を言っているのかわからねーと思うが、ありのままに今年起こった認識の変化が以上だぜ。

 いやしかし、この年になって、これだけ世界の見え方が変わるってのは面白い。実に面白い。傍から見りゃ間違いなく人生詰んでる負け組のおっさんだが、そんな人生でも間違いなく面白いと言える。

 それでは、良いお年を。