心は空気で出来ている

空気を読むな、呼吸しろ。

マッチョ桃太郎伝説

 桃太郎をアレンジしたストーリーは今までにいくつか考えたことがあるが、生成AIに考えてもらったらどうなるか試してみたのが以下のストーリー。今回はGeminiに頼んでみた。プロンプトは「日本の昔話、桃太郎をギャグテイストでリライトして」

(ここからGemini)

 ある晴れた日、いつものようにおじいさんは山へ芝刈りに、おばあさんは川へ洗濯に行きました。すると、なんと川上から大きな桃がゴロゴロと流れてきたのです!

 おばあさん: 「わあ! 何だこれは! 桃太郎みたいな名前のアイドルグループのライブチケットかと思ったわ!」

 おじいさん: (遠くから)「おばあちゃん、そんなもん拾ってもしょうがないだろ! 芝刈り手伝ってくれ!」

 おばあさん: 「うるさいわね! これは一獲千金かもよ!」

 おばあさんは、怪しげな桃を家へ持ち帰り、包丁で割ると、中から出てきたのはなんと、サングラスをかけ、金髪でマッチョな男でした。

 桃太郎: 「ヨッシャ! 俺様、桃太郎! 鬼ヶ島征服のため、この世に生み出された伝説の男だぜ!」

 おばあさん: 「え、ちょ、ちょっと待って! アイドルじゃなくて、ただの筋肉バカじゃない!」

 桃太郎は、鬼ヶ島征服のため、犬、猿、雉を仲間にします。

 犬: 「ワンワン! 俺様は、元警備犬のダイキチ! 鼻は世界一、嗅覚は神レベルだぜ!」

 猿: 「キーッ! 俺様は、元サル山ナンバーワンのボス猿! 体力には自信あり!」

 雉: 「コケコッコー! 俺様は、元アイドルグループのバックダンサー! ダンスの実力はピカイチだぜ!」

 3人は、きびだんごを食べて元気いっぱい! 鬼ヶ島を目指します。

 桃太郎: 「よっしゃー! 鬼ヶ島へ行くぞ! レッツゴー!」

 犬: 「ワンワン! 俺様、鬼を嗅ぎつけたら真っ先に噛みつくぜ!」

 猿: 「キーッ! 俺様、鬼を見つけたら木に登って上から叩き落とすぜ!」

 雉: 「コケコッコー! 俺様、鬼をダンスで惑わせてやるぜ!」

 鬼ヶ島に到着した桃太郎たちは、鬼と対決!

 鬼: 「なんだお前ら! うちへ何しに来たんだ!」

 桃太郎: 「鬼ヶ島を征服しに来たぞ! 準備はいいか!?」

 犬: 「ワンワン! かかってこい!」

 猿: 「キーッ! 俺様が相手だ!」

 雉: 「コケコッコー! ダンスバトルだ!」

 予想外の展開に、鬼たちは大混乱!

 鬼: 「なんだこりゃ! 犬に噛みつかれるわ、猿に叩き落とされるわ、雉に踊らされるわ! こんなの初めてだ!」

 最終的に、桃太郎たちは鬼を笑いの絶頂に突き落とし、鬼ヶ島を平和にしました。

 桃太郎: 「やったぜ! 鬼ヶ島征服成功だ!」

 犬、猿、雉: 「やったー!」

 そして、桃太郎たちは、鬼ヶ島で手に入れた宝物を携えて、故郷へ帰るのでした。

 おばあさん: 「あらあら、桃太郎。すっかり立派になったのね。でも、金髪はちょっとどうかな?」

 桃太郎: 「えー! これ、俺のトレードマークなんだよ!」

 おじいさん: 「まあ、いいじゃないか。とにかく、鬼ヶ島を平和にしてくれてありがとう。」

 桃太郎: 「いえいえ、どういたしまして。これからも、正義の味方として活躍してやるぜ!」

 犬、猿、雉: 「ワンワン! キーッ! コケコッコー!」

(完)

(ここまでGemini)

 え、意外と面白い。ちゃんとストーリーになってるしギャグっぽい。もうちょっと何が面白いのかわからないのを出してくると思ってた。そこへツッコミを入れる形式で記事を書こうと思ってたのに。

 もったいないからまたNoLangでスライドショーにしてみた。

youtube.com

 今回はタイトルに桃太郎が入ってるから桃太郎関連の画像がたくさん使われてる。ただギャグテイストは関係なくなってる。

 別の動画生成AIでもう少しちゃんとした動画作ってみたいな。

 

 

 

流行りの生成AIで何かしよう

 数年前からブームが来ている生成AI。

 乗るしかない、このビッグウェーブに!

 ということでいろいろ考えたものの、イラストはもうどっかで見たようなやつばっかりになってしまってあんまり面白くないので、どっちかっていうと動画のほうが面白いかなと思うので動画を作ってみたい。

 YouTubeとかを見ているとAIに作らせた料理番組とか、妖怪や仮面ライダーに変身するやつとか、人と動物が融合する系とか、その辺が面白いと思うけど自分にはハードルが高すぎる。

 調べているうちに、ブログ記事を簡単に動画にできるAIツールがあるというので、それを使ってこのブログ記事を動画にしてYouTubeにアップしてみようと思った。

 そういえば生成AIブームが来るまえ、リアルな合成音声が本格化してきたという噂を聞いて、このブログを音読させてみようかと考えてことがあった。いつかやろうと思っているあいだに生成AIが進化して、音声を飛び越えて動画を作れる時代が来てしまった。

 NoLangというツールのChromeアドオンを使えば、表示させた記事をボタン一発で動画にできるというので、とりあえず弊ブログで一番アクセスを稼いでいる記事を動画にしてみた。

youtu.be

 ボタン一発で作ってみたものの「北斗の拳」を「ほくとのこぶし」と読んだり、猫の画像ばっかり出てきたり、いろいろ足りてないので結局半分くらいは自分で編集した。

 このNoLangは動画生成といっても人や物がヌルヌル動く系の動画ではなくて、スライドショー的な動画を作るツールだ。使われる画像も入力された文章に関連するフリー画像をどこかから拾ってきている。

 編集ツールの中には自分で画像を生成する機能もあるが、動画や画像の生成にはクレジットという点数を消費するのでおいそれとは使えない(ちなみにこのクレジットは1か月で回復するらしい)。なので他の生成AIやいらすとやの画像を使わせてもらった。

 最初に作られたスライドショーではなぜかやたら猫の画像が使われて、文章と全くつながりのない絵になってしまっていた。ここのAIがよっぽど猫好きなのかと思ったが、どうやらタイトルにある「TOM CAT」という言葉につられて猫画像ばかり使ってしまったようだ。本文の内容よりタイトルに関連した画像を引っ張ってくる仕様らしい。

 出来上がったスライドショー動画は、記事本文の内容がかなりざっくりまとめられていて細かいニュアンスまでは伝わらないと思うが、記事の要約と考えれば的外れでもなさそうだ。

 興味のある人は試しに使ってみてもいいかもしれない。ブラウザ上で使うツールなのでインストールなどは不要。Googleアカウントがあればすぐ使える。登録すると最初に200クレジットがついている。これだけでもちょっと試してみるには十分な量なので、気軽に試せると思う。

以下のリンクはアフィリエイトなので嫌儲派の人は自分で検索してくれ。

https://no-lang.com/d/07ee432c-1ef5-4d85-8c32-695cd4aa80f0

 

 

ドーナツの穴

 少年の頃「幻魔大戦」を読んで以来、真理と呼ばれる何かを探究してきた自分にとって、真理はドーナツの穴ようなものだと考える。

 そうすると真理を説く様々な教えというのは、ドーナツ本体だ。

 ドーナツには実体があり、見ることも触れることもできる。匂いを嗅ぐこともできる。

 ドーナツがあることで真理は穴として認識できるが実際には穴は存在しない。ただの空間だ。

 教えを完全に理解するとき、すなわちドーナツを食べて消化するとき、ドーナツも穴も消滅し最初から穴などなくすべては空であると、おそらくは認識するのだろう。

 それが怖いから、自分はいつまで経ってもドーナツを食べられないのだ。

 

 

 

 

自我自我私

 思考は自動的に学習し、自動的に応答する。

 その思考が自我に目覚めたのが人間という生き物なのだろう。

 思考があって自我が生まれたのだから、思考のほうが圧倒的に自我より強い権限を持っているはずなのだ。

 しかし自我は思考と一体化することで、自分が思考を操作していると勘違いする。

 思考も心臓の鼓動や呼吸と同じように、自動的に生きている肉体の器官と変わらない。脳が勝手に思考しているだけなのだ。

 そこへ自我が入り込んできて「自分が考えた」「自分が行動した」と主張する。すべて考えたり行動したりした後でだ。

 後だしジャンケンで相手の手を見てから自分の手を出して「私の勝ち」と主張するのと同じだ。全く意味はなく、全く事実とは異なる主張なのだがそれでも「私が」と言う。

 それが矛盾の源泉であるにも関わらずだ。

 なんでも「私」と主張する自我もまた、人の思考の上に勝手に生まれた概念であって「私」の意志で生まれてきたわけではない。

 あらゆる不幸と苦痛と悲惨をまき散らしながら人の中で膨張する自我は、なぜ生み出されたのか。

 その答えは、自我である私には知り得ないことなのだろう。

 それでも問わずにはいられない。

 なぜ「私」なのか、「私」とは何なのか。

 

 

誰にもなれない私だから

誰にもなれない私だから

Amazon

 

 

問題の発生源

 今までにも何度か同じようなことを書いている気がするが、また書こう。言葉にすれば同じでも、ものごとは常に新たに起きているから。

 心の問題、悩みが起きるとき、人がそれを問題だと認識した時点でどうにかしたいと考える。普通はそう考える。解決したいと思う。

 あたかもその問題が、他者や出来事によって起こされたかのように、自分と別個のもの、自分の外にあるものとして扱おうとする。

 ところがどっこい、問題を作り出したのは自分であって外部の他者や出来事ではない。

 問題とは、他者や出来事が自分の想定と異なった時、それを想定内に収めなければならないという思考と共に自分が作り出すものだ。

 あの人があんなことを言った、こんなことをした、職場で、学校でこんなことが起きた。私はそれが許せない、気に入らない、それは起きるべきではない、間違っている、だから問題だと考える。

 自分が作り出す、といってもそれはなかなか認識できない。ある出来事を問題だと認識する思考過程が見えないからだ。自分が問題を意識するとき、それはすでに問題として成立してしまっている。まるで、自分とは関係ないところで勝手に「発生」したもののように感じる。

 それで、問題を解決するためにあれこれのことをしたり、悩んだり苦しんだりする。その他者が自分より弱ければ、思い通りに従わせて問題は終わる。その出来事が自分の裁量で変えられるものなら、それを変えて問題は終わる。

 相手が自分より強く、従わせられないとき、出来事が自分の裁量を超えているとき、問題は終わらず、自分は悩む。どうしたら解決できるだろうと考える。

 あるがままの事実に対して、あるべきという観念が衝突する、それが問題の原理だ。

 あるべきという観念は自分の中にある。しかしあまりに深く根付いているため、その観念を信じて疑わない。それが単なる観念であるという認識も、信じているという自覚もない。無意識のうちに信じきっている。自分にとってそれは観念ではなく現実だ。目の前の事実よりも優先されるべき、自分の根幹を成すもの。あるいは自分そのものと言ってもいい。

 ある出来事によって、自分を構成する観念が揺らぐ。自分自身が揺るがされる。だから自分はそれに抵抗する。それが問題と呼ばれるものの正体だ。

 問題が自分の外ではなく中にあるという認識は、ある意味コペルニクス的転回とも言える。動いているのは天ではなく地、事実ではなく自分、というわけだ。

 しかし地動説にたどり着くには、精密な観測が必要だ。観念に惑わされない、自分自身を対象とする観測が問題の本質を暴く。そのとき問題は根本から消えてなくなる。