心は空気で出来ている

空気を読むな、呼吸しろ。

責任と覚悟

 自分がとったある行動の結果に対して、後悔や罪悪感を抱くことがある。いわば責任をネガティブに感じている状態だ。

 この場合、自分に責任があると思っているから悩むのだが、裏を返せば責任を負いたくないと思っている部分が少なからずあるということになる。少々飛躍した言い方になるかもしれないが、責任を負いたくないと思っている場合、実はそこに自分の責任などないのである。

 本当に自分に責任がある行動というのは、その行動に自分の意思が100%反映されていてはじめて成り立つ。とすれば、その結果何がどうなろうと100%自分の責任であり、はじめから全ての責任を負う覚悟があるはずだ。

 結果に対して後悔したり罪悪感を持ったりする、つまり心の何処かで責任を負いたくないと思うような行動は、そこに自分の意思が100%反映されていない。何らかの必要に迫られて、あるいは他人の意見に流されて、しかたなく起こした行動なのだ。

 本人は自分が起こした行動だと思っているが、実を言えば自分の意志など1ミリも入っていない。本人は言うだろう、仕方なくやった部分もあるが間違いなく自分の意思もあったと。だがそんなものは勘違いにすぎない。本当に自分の意思と呼べるものは、100%そうであるか、全くそうでないか、ゼロかイチかしかない。オール・オア・ナッシングすなわち完璧ということだ。完璧であるから迷いなく、後悔や罪悪感もなく、覚悟をもって自分の責任だと言えるのである。たとえその結果がどうであれ。

 80%や50%、あるいはほんの10%、などと言うのはゼロに等しい。そこに自分の意志はないし、そもそもはじめから意思を持つ自分がないのだ。自分がないから状況や意見や欲望や期待に流されて行動する。そのような行動に責任を負うなどと考えるのは、いわばおこがましいことであり、甚だしい思い上がりですらある。

 あなたは最初から存在していない。だからあなたの責任などどこにもないのだ。もし自分の行動の結果に悩んでいるとすれば、それは錯覚である。すべて環境のなすがままに流されて「起こった」出来事でしかなく、自分が「行った」ことなどなかったのだから、責任を負えるはずがないのである。

 自分の意志で起こした行動に、後悔や罪悪感はない。最初から最後まで責任を負う覚悟があり、行動と責任と覚悟はひとつだからだ。そこに悩みが入り込む余地などない。

 ただしあなたに責任がなくとも、出来事の結果は受け取ることになる。それが因果というものだから。あなたは、なぜ勝手に起きた出来事の結果を自分が受け取らなければならないのかと思うだろう。そして実際そのような愚痴を毎日のようにこぼしているだろう。そうして環境や他人のせいにして自分の責任を否定し続けるだろう。都合のいい時、あるいは悪い時にだけ自分が結果を受け取っているかのように振る舞うだろう。

 しかし受け取っているのはあなたではない。それもまた錯覚なのだから。