今日、ふと心に思い浮かんだことを書き留めておきます。
このブログでも何度となく書いていることですが、私が意識的にやりたいと思っていること、やらなければならないと思っていることを、なかなか実行に移さないのはなぜか?という問題があります。
さらに、そんな自分の心理状態を分析して、意識の奥ではこういうことが起きているのではないか、だから思っていることをなかなか実行に移さないのではないか、と考えてみたりします。
同時に、意識的主体である私には、どうしても触れられない領域がある、という感覚もあります。私の意志では制御できない心の動きや、無意識的な行動。また、そういう自分を制御しようとしている私とは何なのか、という疑問。自分と私との乖離状態がもたらす葛藤。
私は今、経済的な問題と、おそらくはその原因となっている心理的な障壁、という問題を抱えています。ここ最近は、この壁をはっきりと意識するようになってきています。さらに、その壁の根が、思っていたより深いところにあるという気がしています。
そんな状態にある私は、ほぼ四六時中、自分の心を観察しているわけですが、その中で感じたことがひとつあります。
これを書いているのと同じレベルの私が意識できて、聴き取ることができて、理屈として理解できる思考の流れがあります。同時に、意識できるけれども、はっきりとは聴き取れず、理屈で解釈することもできない、ぼんやりした思考の動きがあります。
うっすらとした感情のような、もやっとした感覚ではありますが、それは間違いなく思考の一種です。言語として判別することはできないけれど、何らかの言語であり、思考を構成しているものであることは間違いないと思います。
それは、例えていうなら、コンピュータの世界で言うところの「低水準言語」に類するものではないかと。対して、私が普段、意識して使っている思考が「高水準言語」ということになるでしょうか。理屈で解釈することができ、その過程を分析することもできるレベルの思考です。
ただ、コンピュータで言う機械語のレベルまではいかなくて、中間言語くらいのレベルかもしれない、とも思います。あくまで比喩なので、細かい区別はいいんですけど。
とにかく、解釈可能な理屈を構築できるレベルの思考に対して、通常使用している言語では解釈できないレベルの思考がある、ということです。私が普段使っている日本語よりもずっと、ハードウェアに、つまり肉体に近い言語。原始的な言語とでも言い換えましょうか。原始語?よし、これを原始語と名付けましょう。
私の心は、この原始語のレベルで何らかの障害を抱えているのだろうと思います。だから、その障害を乗り越えるために、原始語を理解したい。そのためには、おそらく高水準言語である通常レベルの思考を限りなくゼロに近づける必要があります。高水準言語が働いている状態では、原始語が働いている状態が見えにくくなるからです。
水面が波立っていたり、水が濁っていては、池の底を覗くことはできません。心の底を覗くのも、同じようなことだと思います。
以上。
- 作者: 古代文字指導永井正勝,作品指導深沢紅濾,マール社編集部
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