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【読書感想文じゃない】『虐殺器官』伊藤計劃・ハヤカワ文庫Kindle版

 『虐殺器官』やっと読みました。10年くらい前から、読んでみたいなぁと思っていましたが、なかなか手に取る機会がありませんでした。それを、ようやく電子書籍という形で読むことができました。Kindleさん割引セールありがとう。

 タイトルにも入れましたが、これは読書感想文ではなくて、『虐殺器官』を読んで、自分の中で育ってきた考えを記録しておこうと思ったものです。この物語には、生と死についての哲学的な問題が含まれていて、いろいろと考えさせられる内容でした。

 いろいろと考えているうちに、「”私”とは何だろう」という疑問に思考が集中していき、やがて、この「私」という思考は、私という人間の人生に、ほんのわずかでも関与できているのだろうか、という疑問が湧いてきました。

 これは以前から幾度となく考えてきたことですが、今回改めて考えてみて、やはり私という意識は、私という人間の人生に全く影響していないのではないか?という考えに至りました。それが最終的な答えというわけではありませんが、その可能性は十分にあり得る、と思ったのです。

 私も、そしておそらくこれを読んでいるあなたも、自分が自分の人生を、少なくともある程度はコントロールしていると思っているのではないでしょうか。自分の思考、価値観、人生観、あるいは感情、性格、趣味嗜好などといったもの、すなわち「私」が、自分を取り巻く環境と、時にはせめぎあい、時には助けられながら、人生を構築しているのだと。

 しかし、本当にそうでしょうか。私という人間には、意識、思考、感情、そして肉体があり、生きています。が、この人間の行動に関与している意識は、本当に「私」なのでしょうか。いえ、全くそうではありません。「私」は、意識のほんの一部分で、意識の上に作られた仮想的な存在だからです。

 その証拠に、私が意識して行うことが、普段の生活の中でどれだけあるでしょうか。私の思考、私の感情、私の身体、などと言いますが、本当のところ、その全ては私のコントロール下に置かれているとは到底思えませんし、実際に私はコントロールできていません。

 私の中に起こる、あらゆる思考、感情、様々な心理現象が、私に属していると言えるでしょうか。それならば、私はそれらを私自身の意志で生み出したり、消去したり、どうにでも制御できるはずです。しかし全くそうではない。私はいつ、どこから、どうやって思考や感情が生じたのか知ることもできないし、それらを思い通りに制御することも、止めることもできない。勝手に生じ、勝手に動き回り、勝手に消えていくそれらを、後付けで「私がやったことだ」と言っているだけなのではないでしょうか。

 私は、私のこれまでの生活や、仕事や、恋愛などが、私の思い通りにいかないことに思い悩んできました。今も、いくつかのことで思い悩んでいます。しかし、私の人生そのものに、私が全く関与できていないのだとしたら、つまり「私」は、ただ私という人間が送る人生という映画を見ているだけで、その物語の展開を何らコントロールできないのだとしたら。

 私が、私の人生をうまくコントロールできないことをいちいち思い悩むのは、全く無意味なことではないでしょうか。初めから、何もコントロールできない立場なのですから。

 そんなことを考え、その可能性……私が私の人生に一切関与できない、いやそもそもの初めから、なにひとつ関与していない、という可能性に意識を向けていると、頭の奥に湧き上がるもの、頭の奥に迫ってくる感覚があります。感情でもなく、イメージでも言葉でもなく、ただの感覚だけがあります。この感覚はずいぶん前から知っていますが、未だに何なのかはわかりません。たぶん、わからなくてもいいものでしょう。

 人生の展開に一切関与できないにも関わらず、自分が人生の中心にいるようなつもりになっている「私」などというものが、どうしてあるのでしょうか。まるで、おもちゃの乗り物に乗った子どもが、本当は運転していないのに、自分で運転している気分でいるような「私」という存在。

 私には本当にわかりません。こんな考えを展開することも、それをブログに書くことも、「私」の制御下にはないのですから。

 『虐殺器官』の感想は、また次の機会に書きます。

虐殺器官〔新版〕 (ハヤカワ文庫JA)

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