心は空気で出来ている

空気を読むな、呼吸しろ。

のんびりしながら、心はもがいている

 昼下がりのショッピングモール。

 連日、猛暑日が続き、今日も激しい暑さが太陽光と共に、頭上から容赦なく降り注いでいる。20~30メートルも外を歩けば、汗だくになるような暑さだ。

 僕は車を止め、日陰でも温められたオーブンの中みたいな暑さの立体駐車場を歩いて、店舗入口から屋内に入った。そこは立体駐車場に出入りするためのエレベーターホールで、ほとんどクーラーは効いていない。

 エレベーターの前にあるエスカレーターに乗って、階下に降りていく。降りるに従って気温はどんどん下がり、やがて快適な涼しさに満たされたフロアに入った。平日の午後、人影もまばらで、歩いているのはスタッフか高齢者ばかり。たまに小さな子どもを連れた母親が、カートを押しているくらいだ。

 店内を歩くと、テナントが抜けたスペースにいくつかのソファが置かれ、壁際にはガシャポンマシンがずらりと並んでいる。鳴り物入りで開店した田舎のショッピングモールは、数年でテナントが撤退し、いくつもの店舗スペースが休憩所と化している。

 僕は柱のそばに置かれたソファに腰を下ろし、スマホKindleを開いて、伊藤計劃の『虐殺器官』を読み始めた。セール中に何冊か買った電子書籍のうちの1冊だ。まだ2割ほどしか読み進んでいない。

 垂直の柱は、背もたれとしてはあまり快適なものではない。足を組んでスマホを膝に乗せ、なるべく腕や肩に負担がかからない姿勢で読む。

 背後に人の気配がした。女性が誰かに話しかけている。やがて、視界の右側から、薄いベージュのワンピースを着た女性が歩いてきた。僕の目の前に並んだ、ガシャポンマシンと僕の間の、1メートルに満たない隙間を通るつもりのようだ。

 僕は顔を上げずに視線だけを前に向けた。視界に入るのは、女性の胸から下だけ。肩から下げたバッグ。腰のベルトについた飾り。服に合わせた淡い色のヒール。ゆっくり、落ち着いた歩調で、僕の前を横切っていく。

 女性が通り過ぎると、僕はまた視線を『虐殺器官』のページに戻した。主人公が、敵地の戦闘員の車を奪う場面。まさかこんなところで『頭文字D』のネタが出てくるとは思わず、無意識にニヤついていた。

 そこでふと、視線を背後のソファに向けると、男性の高齢者が杖をついて座っている。先ほど僕の前を横切った女性の連れだろうか。女性はここで男性に待っているように伝え、自分の買い物をしに行ったのかもしれない。そんなことを考えた後で、僕はまた膝の上のスマホに視線を戻した。

 物語を読みながら、いや、朝からずっと、僕の心には焦りがあった。こんなところで時間を潰している場合じゃない。来月の生活はどうするんだ。それ以前に、今月後半の支払いが間に合わない。給料日は月末だが、支払期日はその前にやってくるんだ。

 胃が痛い。一体、何度こんな思いを繰り返せば、僕は行動を起こすんだろう。もう1年前から分かっていたはずだ。なんとかしなければ、また経済的破綻を目の前にすることになると。その時に焦っても遅いんだ。自分自身にそう言い聞かせながら、結局は何もせずにこの1年を過ごしてきた。そして今、予想通りの状況に、なるべくしてなっている。

 ここまでの間、自分を変えようと何度も試みた。自分が行動を起こさない原因を、理由を、心理的障壁を、探り出そうとした。ある時はそれが見えたような気がして、気分が晴れたりもした。しかし、心が晴れても何の具体的行動も起こさず、現実の経済状況は何も変わらず、また同じ場所に戻ってきた。

 もう、僕は自分を信じることができない。何かを閃いたり、何かがわかったような気がしても、現実には何も変わらない。もう、閃きも、高揚感も、信じない。それでも、僕はまだ本当には絶望しきっていないことを知っている。それは、どこかに希望があるからじゃない。初めから希望がないから、絶望することさえできないんだ。

 僕は心を閉ざしてしまっているのかもしれない。何らかの行動を起こすほど、心に強く感じるものがない。経済的破綻への不安も、家族を失うことへの不安も、僕を行動に駆り立てない。これだけ追い詰められているというのに、心のどこかでは平然としてしまっているんだ。焦っているはずなのに、心に波風が立っているのは上っ面だけなんだ。こんな異常なことがあるだろうか。僕はもう正気を失っているんだろうか。

 などと、伊藤計劃の文体に薄っぺらい影響を受けながら、こんな記事を書いている時点で、真面目に焦っていないことがわかる。はーあ。もっと焦れよ自分。

虐殺器官 (ハヤカワ文庫JA)

虐殺器官 (ハヤカワ文庫JA)