誰もみな行きたがるが はるかな世界
映画『空海ーKU-KAIー美しき王妃の謎』の原作小説『沙門空海 唐の国にて鬼と宴す』を読んでいます。角川文庫版の3巻の途中まで読みました。
昨日観てきた『レディ・プレイヤー1』とは逆のパターンで、こちらは映画を観てからの原作読みです。やはり原作は長大な物語で、映画よりもじっくり複雑に展開していきます。
時折、空海が仏教について語る場面が出てきます。私はその語りに感動したり、何らかのひらめきを感じたりしながら、物語を読み進めています。
奇しくも、今年に入って本物の経典を目にする機会がありました。全六百巻からなる『大般若波羅密多経』です。本物といっても昔の木版による複製ですが。三蔵法師が天竺(インド)から持ち帰って漢訳したというあれです。
内容を見ても私にはサッパリわかりません。巻頭に玄奘三蔵がどうこうとか、お経っぽい文言が並んでいるな、ということしかわかりませんが、まぁとにかく膨大です。
私が仏教に興味を持ったのは、これまた夢枕獏さんの作品である『サイコダイバーシリーズ』あたりの影響があると思います。興味を持ったといっても、深く勉強したわけではないんですけど。若い頃は人生とは何だろうと悩むことが多かったので、仏教だけでなく、いろいろな宗教に触れてみました。
そこで思ったのは、仏教とかアジア系の宗教には、哲学的なエッセンスがあるなということです。キリスト教だと、倫理とか道徳とかが中心で、あれをしなさい、これはしてはいけない、神を信じなさい、というような教義が主な内容ですが、仏教は宇宙の成り立ちとかこの世の仕組みとか、あとは悟りに至るための修行とか、そういう内容があって、人はただ神に救われるのではなく、努力次第で自らを救済できる、みたいな考え方があります。
もちろん、仏教にもキリスト教にもいろいろな宗派があって、一概に言えることではないのでしょうが、私個人の浅い知識で見た限りでは、そんなイメージを抱いています。
『沙門空海~』の中で、空海が「色即是空」ということについて語る場面があります。「私」は目に見えず触れることもできないもの、すなわち五感で捉えられる「色」ではなく「空」ですが、それでいて「色」が存在するためには、それを五感で感ずる「私」という「空」がなければならない。その「空」である「私」もまた「色」という感覚なしには存在し得ない。だから「色」は「空」であり、逆もまた真なり。ざっくりそんな内容の話です。
これは理屈で言うとその通りなのでしょうが、普通の感覚で世界を捉えている限り、どれだけ理屈を重ねようとも、この「色即是空」には至らないのではないかと思うのです。つまり、まず最初に「色即是空」という答えがあって、いえ、何らかのひらめきがあって、それを「色即是空」という言葉と理屈で表現したのではないか、ということです。
私個人の体験から言っても、ある種のひらめきというものは、理屈や思考の積み重ねの上に辿り着くものではなくて、まさに一瞬の、何の脈絡もないところから突然出てくるものです。その瞬間には、自分が何を理解したのか、何をひらめいたのかわからず、後から言葉がついてくる感じ。
宗教の教義というのは、もともとひらめきを言葉にしたものの積み重ねで、それがだんだん理屈優先になってきて、ひらめきよりも理屈のほうが真実であるかのように受け取られるようになった結果、出来上がるものなんだろうな、と思います。
本来、ひらめきそのものは、言葉でその本質を伝えられるようなものではなくて、言葉に翻訳したひらめきにあまり意味はないだろうと思うのです。言葉の奥にあるものを学び取ろうとする人にとっては、それなりに意味のあることなのかもしれませんが、言葉をそのまま鵜呑みにして信じ込むような人にとっては害悪でしかない。その害悪が組織宗教というものなのでしょう。
唐から密教を持ち帰った空海が、今の日本の有様を見たら、何をしようと思うのでしょうか。
ということで、『沙門空海~』を最後まで読んだらまた感想記事などを書きたいと思います。
ではまた!
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