心は空気で出来ている

空気を読むな、呼吸しろ。

暴力と向き合うなかれ

 ホッテントリ入りしてたこのまとめなんだが……

フランス革命の専門家「棒きれで物や人を殴ることにはたまらん愉悦がある」「これを認め、この欲求とどう向き合うかの過程が世界史の本質だ」

う~ん、この手の話はどうも……

2022/01/31 12:28

 ぶら下がってるコメントを読んで、なーんか腑に落ちない感じがして、ずっとひっかかってた。それが少し考えとしてまとまったので書いてみる。

 暴力――それは人間の本質、本性、あらがえない本能なのか。

 暴力と人間は切っても切り離せない。人間の歴史は暴力の歴史だ。

 しかし、これを「人間の本性だから」「本能だから」と決めつけたうえで「どう向き合うか」などと言うのは、完全に的を外している。

 自分の中にある暴力の愉悦を「人間の本性」と言ってしまうことで、自分の暴力性の免罪符としていないか。暴力性を抱えているのは「その他大勢の人間」ではなく、他ならぬ自分自身であるはずだ。

 「人間の」と表現することで、自分自身の暴力を客体化し、まるで暴力が自分とは別個に存在する対象のように錯覚する。それゆえに「どう向き合うか」などという言葉が出てくるのだ。

 問題は人間の暴力ではない。自分自身の暴力だ。

 暴力が自分に備わった、あるいは自分の中にある性質などであると考えるのは欺瞞である。暴力とは自分そのものだからだ。

 暴力と向き合うことは、暴力を解決しない。暴力が自分の外にあるなら向き合うこともできるだろう。しかし自分自身が暴力であるとき、どう向き合うというのか。

 暴力と自分とは一体である、という認識が解放をもたらし、暴力からの自由を示唆する。暴力とどう向き合うか、どう扱うべきか、などと思い巡らしているうちは、自分が暴力であることに気づかない。

 だからこそ、人はいまだ暴力から解放されないのだ。