昔、戸塚ヨットスクール事件というのがあった。昭和の時代だ。
当時、亡くなった少年たちと同年代だった私は、恐ろしい顔をした校長がテレビに出るたびに、こんな学校は嫌だと思っていた。しかし実際に通っていた中学校も、普通に体罰が行われていて、学校自体が好きではなかった。当時はあまり体罰が問題視されていなかったという時代背景もある。
おそらく、この戸塚ヨットスクール事件をきっかけに、体罰が問題視されるようになったのではないだろうか。それまでは、学校での体罰は当たり前のように行われていた。同じクラスの男子が「持っている鉛筆の芯が太い」というだけで何発もビンタをくらっていたのを覚えている。
校則で、鉛筆の芯はHBか2Bと決められていたらしいのだが、その子は4Bを持っていたので、教師から「おまえはそんなに字が上手いのか」と因縁を付けられていた。芯の太い鉛筆を使うのは字が上手い人、という話をその時初めて聞いたが、あれ以来、そんな話は一度も聞いたことがない。
教育には体罰が必要だ、という人は、自分が体罰を受けて育ってきたのだろう。体罰への恐怖で子どもを縛り、型に押し込めることで、大人が望む通りの人間を作ることを教育というなら、それも正しいのだろう。しかし、暴力への恐怖と服従は、間違いなく人を歪める。
戸塚ヨットスクール事件をきっかけに、家庭内暴力やひきこもりに悩む親が、フリースクールに子どもを預けにくくなったのではないだろうか。あんなところに子どもを入れる親は人でなしだ、という世論もあっただろう。今のネットもそうだが、部外者は無責任に偽善を振りかざすものだ。
私にとって教育とは、愛のある人間を育てることだ。
愛のある人間を育てるには、育てる人間にも愛がなければならない。
問題は、愛とは何かを、言葉で説明できないことだ。
だから教育は、人間にとって最も難しい仕事だ。しかし間違いなく、暴力ではないし、洗脳でもないし、社会に服従する人間を作ることでもない。暴力は、愛のある人間関係を築くことのできない、未熟な人間が使うものだ。愛あればこそ、人は人として成熟していると言える。愛あればこそ、人は幸福に生きることができる。
人間には愛が必要だ。暴力でも偽善でも、甘さでも感傷でもない、本物の愛が。