心は空気で出来ている

空気を読むな、呼吸しろ。

この事件の犯人に怒りを感じない

news.yahoo.co.jp 昨日の川崎襲撃事件は、今朝の新聞の一面でも取り上げられていた。

 記事を読んでいると、期せずして事件に関わることになってしまった人たちのコメントに、いたたまれない気持ちになる。突然の凶行に、親子が引き裂かれ、人生を奪われる。残酷な出来事。

 しかし、私はやはり犯人に対する怒りを感じられない。

 かといって、犯人も不幸な身の上だからとか、そういうことも思わない。

 ひたすら悲しく、痛々しい出来事で、やりきれない気持ちになるばかりだ。

 この事件を、被害者とか加害者とか、そういう視点で見られない。

 どちらかと言えば、どこぞのブラック企業で働く人が過労死したり、搾取されていることが明るみに出て、そこの社長がのうのうと偽善味たっぷりのコメントを垂れるほうが、よっぽど腹立たしい。

 犯人に対する怒りよりも、犯人のような人間がこの世の中に、自分の生活圏のすぐそばにも存在する可能性について考え、恐怖する。

 この犯人が、人間として生きていて、事件の後も人間として何らかの言葉を残したり、裁判で何かを語ろうとするならば、怒りを感じるかもしれない。

 だが私には、この犯人が人間とは思えない。

 ケダモノとか、人でなしとか、そういう非難めいた感覚でもない。本当に、全く理解できない、人の形をした何か別の生きもの、という風にしか思えない。

 それでもやはり、彼は人間だったのだろう。人間だったからこそ、このような凶行に走ったのだ。それが怖い。私も、ベースの部分では、彼と同じ人間だということが恐ろしい。一歩間違えば、彼のような凶行に走るかもしれない。人間である以上、その可能性を否定しきれない。それが怖い。

 そういう可能性を持った人間の集団、社会の中で生きていることが怖い。

 いつどんなことをきっかけに、無差別に同族を殺し始めるかわからない生き物。

 そんな生き物が、群れを成して生活している。

 人間は、長い年月をかけて、様々な技術を発達させ、病気や、災害や、危険な動物から守られた、安全な生活を築き上げてきた。しかしその分、同じ人間から危害を加えられる度合いは増したのではないだろうか。人間にとって最も危険なのは人間だ。

 そう考えると、殺人、テロ、戦争が、いつ起きてもおかしくないのが人間社会なのだ。というより、現に日常茶飯事として、世界中でそんなことが起きている。おぞましい暴力が渦巻く世界に生きているということが、リアルな現実として迫ってくる。今回のような事件も、いつ誰の身に起きてもおかしくはないのだ。

 となれば、犯人に対して怒ったり、犯人の身の上についていくら調べ上げたところで、何の意味があるだろうかと思えてくる。この社会が、凶悪な犯罪者を生み出す土壌として機能している限り、個々の犯罪者について分析することに、意味などあるだろうか。いずれまた、別の動機、別のパターンでもって、無差別に殺人を犯そうとする人間は出てくるだろう。

 こんな事件が起きることに、何の不思議もないような社会の只中に生きているという、恐ろしい事実に、戦慄を覚えずにはいられない。

 しかし、それでも人は生きていくしかない。生きること以外に、何もできはしない。