短いこの人生で
いちばん大事なもの
それは自由、自由、自由
昨日の記事で書いたことをもう少し拡げて考えると、社会通念というものが軒並み崩れ去るんじゃないか、ということを考えてみたいと思います。
私たちの社会は、自我や意識に自由意志があることを前提として組み立てられています。自分の意志、自分の考え、自分の所有物、その他自分の〇〇。
わかりやすいところで言うと、「責任」という概念があります。これは自分の意志で行ったことの結果は自分に帰属する、みたいなことです。これは自分というものの自由意志、権利などを前提にした概念です。
そこで、自我や意識の自由意志や権利、いわば「制御権」とでも言うようなものが否定されたらどうなるでしょうか。つまり、人の意識は自分の意志で動いているのではなく、自動的に、あるいは自然の成り行きで動いているだけで、「自分」というものはそこに後付けされた、架空の制御者に過ぎないとしたら。
意識が勝手にやったことを、後から「これは私が考えた」「私が判断した」と、あたかも自分の自由意志、自分の権限によって考えたり行動したのだと錯覚しているだけだとしたら。
その錯覚を取り除き、すべての意識の働きは、自動的な、自然の成り行きの結果でしかなく、そこに自分の意志など介在していない、ということになったら、責任という概念は根底から崩れ去ります。
例えば、通常なら人が何らかの犯罪や、犯罪までいかなくても、ちょっと常識を外れたこと、道徳的にまずいことをして、誰かに迷惑をかけた場合、それはその人自身の意志によって行われたことなので、その人に責任があることになり、処罰されたり、人から嫌われたりします。
しかし、自我や意志を持たないものが誰かに迷惑をかけた場合はどうでしょう。動物とか、偶発的な事故とか、自然災害とか、そういうものによって被害を受けた場合です。動物であれば、檻に閉じ込めたり、殺処分するということもありますが、それは責任とか罪といったことを前提にはしていません。無生物であればなおさらです。
そのように、もしも人の行動が、自身の意志によるものではなく、自然の成り行き、災害と同じようなものだとしたら、責任を問うということは考えられなくなります。堤防を造ったりするのと同じように、何らかの対策を取ることはあっても、責任がどうこうという話にはならないでしょう。
誰かの行動で誰かが被害を被る、というのはわかりやすいパターンですが、ことはそれだけにとどまりません。人の意志を否定するということは、責任、義務、所有、さらには善悪の概念までもが崩れ去るということです。人間社会を構成するほとんどのシステムが、根本から成り立たなくなります。
私たちが無条件に受け入れている「自由意志」という概念を否定したとき、世界がどのように見えるか、想像してみると面白いかもしれません。
ということで、本日もお粗末さまでした。
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