おお 神様 神様
たすけて パパヤー
今日もまた、「自由意志」が否定されたらどうなるかを考えてみました。
精神障害や疾患を抱えている人が犯罪を起こすと、情状酌量になったり、無罪になったりすることがあります。明らかにその障害や疾患が原因で「心神耗弱」あるいは「心神喪失」の場合には、減刑したり無罪になったりするそうです。
心神喪失または心神耗弱の場合、「自分」の判断力や思考力、言い換えれば「自己制御能力」が全く失われているか、著しく低下した状態と言うことができます。その場合は責任能力がない、または低いとみなされます。
となると、自分でわざとやったわけじゃないから、仕方ない面もあるね、ということで、無罪か減刑ということになるのでしょう。
さてここでポイントとなるのは、有罪になるかどうかは、犯罪を起こした時の精神状態が「自分」の制御下にあったかどうかによる、ということではないかと思います。自分で思考し、判断し、意識的に犯罪を犯したのであれば、それは責任能力があるということになります。
しかし、いわゆる「健常者」の思考や判断、意識、自我といったものが、全くの自然現象、偶発的なもの、「自己」に関わらないものだとしたら、どうなるでしょうか。そもそも「自分」というものが現実には存在せず、人の精神状態がただの「成り行きの結果」としてあるだけで、そこに「自己」は介在していないとしたら。
ある人が、憎しみの末に、あるいは利己的な目的のために、誰かを殺したとします。犯人の思考、判断、意識が、全て彼の「自己」によって独自に生み出されたものならば、彼には責任があると言えるかもしれません。しかし実際には、彼の思考、判断、意識、価値観、人生観、性格などは、彼を取り巻く人間社会を含め、全て自然現象の結果としてあるだけです。
この世界に存在するものがすべて宇宙から生まれたのなら、すべての現象の因は宇宙にあります。私やあなたの心が、この宇宙から、自然から全く無関係に、この世の原初から私やあなたによって独自に構築されたものならば、宇宙を因とする現象から独立して「責任」を持つことができるでしょう。
しかし、私たちの存在、意識が、この宇宙から生まれ、この自然界の中で機能する限り、それは独立した「自己」とは言えず、そうなれば「責任」という概念も、「罪」という概念すら無意味なものになります。たまたま宇宙空間から飛んできた隕石に当たって怪我をしたら、その隕石を罪に問えますか。私たちの悪意も利己心も、その隕石と別物ではありません。同じ宇宙から生まれたのですから。
これは極論でしょうか。まぁ極論でしょうね。
ただ、人が「自分」というものを、宇宙や地球、自然とは全く別個に独立して機能していると考えるのは何故なのか、ちょっと不思議ではあります。それは言い換えれば、自分自身を「神」だと考えているのと同じことではないでしょうか。自分には責任能力があると考えている人はみんな、心の底で「私は神だ」と思っているに等しいのです。面白いですね。
ということで、本日もお粗末さまでした。
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