心は空気で出来ている

空気を読むな、呼吸しろ。

自由意志は存在しないのかという話を当の意志が論ずることに妥当性はあるか

 つまり、人の脳が物理法則に則った反応の連鎖によって作動しているのなら、その動作は物理法則に従っているはずで、すなわち脳が作り出すとされているこの意識もまた、物理法則に従って動いているにすぎないという話なんですよね。

 もちろん、物理法則というやつが今後さらに拡張されていって、今ある物理法則の体系が根本から塗り替えられることもあるかもしれないけれども、それでも意識が、脳が法則に従って動くものであることに変わりはないわけで、自由意志が本当は自由ではなくて法則の支配下にあるという前提は覆りません。

 僕の中で「そっか、自由意志ってのは幻なのかもな」ということをわりと本気で考えるようになったきっかけは下のブログです。

U.G.クリシュナムルティ「悟りの神秘」 - livedoor Blog(ブログ)

 もともと、悩める若者だった頃にJ.クリシュナムルティの本に出会い、かなり影響を受けたわけですが、J.クリシュナムルティからしばらく離れていて、久しぶりにネットで検索したら出てきたのがこのブログでした。

 読んでいるうちに引き込まれていって「う…これはやばいかも」という程度に脳髄をぐりぐり刺激される内容で、鳥肌立てたり、閃きを感じたりしながら読みました。

 こういう話は、たぶんいろんなところでいろんな人がいろんな形で記していると思うんですが、その中で自分が理解できるような形で記された書物にいつ出会えるかというのは全く運次第ですね。

 自分なりに「自由意志は存在しない」件を消化してみて思うのは、悟りでも開かない限り自由意志が存在しないということを本当の意味で理解できているとは言えないんですよね。論理的には理解できたとしても、心の底、無意識の部分では自由意志というものを信じている。だからこそ、自分の意志と現実のギャップに苦しむんでしょう。

 本当に自由意志なんてないと心底理解してたら、自分の置かれた状況がどうであれ、全く何の矛盾も葛藤も感じないはずですから。あるのは現実、ありのままの姿だけですから。どうありたいとか、どうなりたいという意志が幻想だとしたら、現実はたったひとつしかない。”もしも”や”たられば”はない。

 つまり、人が心理的に抱える苦痛が全く存在しない状態のはずです。あらゆる苦悩、葛藤から自由な状態になるはずです。そう、心が自由な状態。

 逆説的な言い方ですが、自由意志がないということは、心が完全に自由だということになるわけです。

 だけどそんなことは、自由意志という幻想から自由でない意識があれこれ考えても、全くの無駄、無意味なんですよね。

 だけどだけど、無駄だ無意味だと言いながら、あれこれ考えてしまうということが、僕の心が全く自由でないという証なんでしょう。

 自由を信じるがゆえに、自由でないというこのパラドックス

 そういうこと考えるのが面白いんですよねぇ。