前回のあらすじ
<J・クリシュナムルティ『生と覚醒のコメンタリー』を2周読み、ようやくわかったことは、自己認識の重要性。心を見つめ、己を知ることこそが、唯一の打開策だと理解したまではよかったものの……>
さて、自己認識が重要らしい、ということはわかりました。自分自身が、最も身近な人の心の標本ですから、自分の心を理解できれば、他人の心もある程度は理解できるのではないか。そして人の心を知ることができれば、人を許し、人と分かり合うこともできるはずだ。そのさらに先に、人生そのものを理解できる可能性が開けているかもしれない。そんなことを考えました。
しかし、ではどのようにして「自己認識」すればいいのか。今度は、自己認識というキーワードを念頭に置いて、再び『生と覚醒のコメンタリー』を読み始めました。これで3週目。
クリシュナムルティは、方法を求めてはならない、「どのようにして」とは決して問うてはならない、と言いますが、そんな難しい話は置いといて、まずは取っ掛かりを探します。
そこで今度は、静かな心が必要である、ということがわかってきました。心を静め、意識の表面がクリアになった時、心のより深いところから、自分自身の本音が聞こえてくる。その本音にこそ、建前と偽善で塗り固められた意識ではない、人の心の本質があるのだと。
そんなことを考えながら生活していたある日、私は早朝に目が覚めました。夏だったので、まだ4時くらいでしたが、外はすでに明るくなってきていました。まだ誰も目覚めていない時間。鳥のさえずりすら聞こえていません。私は布団の上に胡坐をかき、目を閉じて周囲の静けさに意識を向けました。すると、それまで味わったことのない静けさ、環境音がないということではなく、自分の心が今までになく静まっているのに気がつきました。
心が鎮まるとはこういうことなのか。
心の静けさは、その朝から数日の間、私の中に留まっていました。こんな精神状態があるのか。平和、安息、静寂……どんな言葉でも表現しようのない状態。なにしろ、心がどんな構えも取っていない、どんな動きもしていない、不思議な状態です。不思議な状態と言いつつ、その不思議の中身を説明できない、なんとも言えない状態でした。
その静けさがある間、私はある意味で無敵の状態でした。どんな不安も、高揚もなく、プラスでもマイナスでもない状態。完全な均衡。何があっても動じない気がしました。
しかし、日常生活を続けていくうちに、それも薄れていき、私はまた普通の精神状態に戻りました。それでも、私の心にあんなことが起こり得るのだという事実が、人生に新たな地平を開いたような気がしました。大げさでなく、本当に人生が根底から覆ったような気分でした。
それからというもの、私は時折、早朝や寝る前に、胡坐をかいて瞑想の真似事のようなことをしました。目を閉じて、ひたすら自分の心が動くさまを見つめ続ける。そんな作業です。そうこうするうち、ほぼ一日中、何をしていても、自分の心を常に見ている状態になりました。私の中に「観察者」が出来上がったのでした。
ところが、その副作用として、それまでとは異なる苦悩を味わうことになってしまったのです。
- 作者: J.クリシュナムルティ,アラン・W.アンダーソン,Jiddu Krishnamurti,Allan W. Anderson,大野純一
- 出版社/メーカー: 春秋社
- 発売日: 1993/01
- メディア: 単行本
- この商品を含むブログを見る