心は空気で出来ている

空気を読むな、呼吸しろ。

失われた真理(ゆめ)を求めて

 真実を求め、真理に至ろうとする者は少ない。

 虚飾にまみれた現世にうずもれているほうが安心だからだ。

 ところがどっこい、虚飾の中で本当の安心は得られない。虚飾はしょせん虚飾にすぎず、そこに真実はない。

 しかしまた、真理に至ろうとする者も虚飾にまみれざるを得ない。そのような欲求は、そこそこ大きな挫折を経験し、そこそこ重度に人生をこじらせていないと生まれてこない。現実に辟易し、認知が歪められているからこそ、真理などという妄想にむしばまれるのである。その点で、俗世間の富や名声を求める欲求と、真理を求める欲求に大した違いはない。

 ところがここにある種のパラドクスじみたものがある。現実社会の毒を拒絶し、妄想に逃避することで味わう苦痛の中に見えてくる道があるのだ。もちろん、人によってはその苦痛から逃避するためさらなる妄想にうずもれていく場合もある。

 それゆえ、真理を求める道には、俗世の安楽を求める道とは異なる危険がある。聖なる道と俗なる道は、ほとんど見分けがつかない。表面上は全く別の道であるかのように見えるが、実は全く同じだったりする。

 この道を行けば富や名声や、あるいはささやかな幸せが得られるという標識も、真理や真実や、宇宙の神秘にたどり着けるという標識も、どちらも俗な道である。わかりやすい標識で案内される道が行きつく先は同じ闇だ。

 真理に至る道は標識のない広大な大地であると同時に、自分ひとりがやっと通れる幅の、迷うことのない一本道でもある。

 言葉、二元的で相対的なこの言葉をもってして、絶対的なるものを表現することは全く不可能だ。知をもって不可知をとらえることはできない。それでも人は自己の欲求をもって表現するのみである。