「しらたきとネギとお豆腐 白菜肉は はいってないわ私の人生」
借金を抱えた貧乏人なので、しょっちゅうお金のことを考える。
最近、自分のお金に対する姿勢というか、意識の深いところにある「お金観」みたいなものが見えてきた気がする。
ここ10年以上、ずっと借金に追われて生きてきた。その間、お金を作る機会がなかったわけではない。むしろ、運がいいと言えるくらいにお金を作るチャンスはあったと思う。そして実際、そのおかげでなんとかこれまで破産せずにやってこれた。
しかし、実際にお金に換えることができたチャンスは、訪れたチャンスの半分くらいだったと思う。よくて3分の2くらいか。機会があったのに、それらをお金に換える努力をしなかった。努力どころか怠けて逃した。
自分にとって、お金は仕事の動機にならない。仕事だけでなく、仕事以外でも、お金が行動を起こす動機になることがほぼない。また、お金そのものが、行動の目的にならない。
お金は必要だ。お金は欲しい。だけどそれは、借金を返すためであり、欲しいものを買うためであり、満足を得るためだ。お金はそのための手段でしかない。お金そのものが目的なのではなく、満足感を得ることが目的なのだ。
だから、本当の意味でお金が欲しいと思ったことがない。欲しいのはお金ではなく、お金によって買える物や時間、自由が欲しいのだ。
自分にとって、お金は全く重要ではない。それは綺麗事とかではなくて、お金そのものより、お金と交換できるものこそが重要だから、そういうことになるのだ。
そういう意味で、お金そのものが欲しいと思う人なんているのだろうか。お金は単なる数字でしかない。しかし、お金がなければ何も手に入らない。生きていくことすらままならない。
モノ、時間、自由が欲しい。そのためにはお金がいる。できれば、お金を介さず、直接いろんなものが手に入ればいいのに、お金を介さないと何も手に入れられない。でも、お金を稼ぐのは面倒だ。もしかしたら、自分はお金が嫌いなのかもしれない。だからお金を貯めることもせず、稼ぐこともせず、若いころからずっと貧乏なのかもしれない。
ずっと貧乏だから、自分にとってお金は、苦痛の元であることのほうが多い。
こんなことを書いていると、だんだん辛くなってくる。胃が痛くなる。自分の中の、お金にまつわる何かが暴かれることを避けているのではないか、という気がする。お金に関する、意識の底にある何かが、自分にとって見たくないものなのかもしれない。
それが何なのか、はっきりとしたことはわからない。わかるのは、それをはっきりさせたくないような気がする、ということだけだ。
意識の奥で、何かを見たくないと感じているのは、お金の問題をきっかけとして、自分が人生に対して抱いている、何らかの幻想が打ち破られてしまうからかもしれない。意識の奥で何かを見たくないと感じるのは、たいてい何らかの幻想を守ろうとしている時なのだ。
などといろいろ考えてみるものの、真相は曖昧としてわからない。心の奥にあるものは、論理的に形作られてはいないから、ただ、何かがある、としか感じられない。とはいえ、その何かは、自分にとって重要なヒントのような気はしている。
ここから先、理屈は通用しない。ただ、直観だけが頼りだ。
ということで、今日の話はここまで。
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