苦しいのは執着しているからなんだけど執着しないと自分が何なのかわからなくなる
最近なんでこんな苦しいのかなーと思ってて、その苦しいのをずっと見てたんですけど、そしたらふっとわかったことがあって。
苦しいのは金銭的な問題が原因だというのはわかりきってました。それ以外に何も原因がありませんでしたから。もう胃が痛くて吐き気がするくらい苦しくて。
でも、金銭的な問題はもうどうしようもない。いや、どうしようもあるかもしれないけど、少なくともこの精神状態では何かアクションを起こすこともままならない。とにかく不安で不安で。先のことを考えると気分がどんよりするばかりで、この状況を脱するために何かしようという気力も湧かない。
まずはこの、不安で苦しい精神状態を脱することが先決だと考えた僕は、自分の内面を見つめることに徹しました。心が立ち直らなければ、何も行動できない。
苦しい。これはどうにかならないか。なぜ苦しいのか。苦しむ前にやるべきことがあるはず。先のことを考えてもしょうがない。不安が増すばかりで何の足しにもならない。今できることを考えるべきではないか。いや、この精神状態を脱することが先だ。なぜ苦しいのか。なぜ……
思考の袋小路。同じ理屈の堂々巡り。所詮、この状況で考えられることのバリエーションは限られる。理屈の上では、自分が行動を起こすこと以外に解決策はない。しかし、理屈ではわかっていても心は苦しみ続けている。苦しくて何も手につかない。
ふと思う。苦しいのは執着ではないのか。自分の家族、自分の生活、プライド、世間体、その他諸々の、自分がしがみついている何か。
苦しいのは幻想?本当はこの苦しさを持続させることで、自分の中の何かを守ろうとしているのか。いや、自分そのものを守ろうとしているのか。エゴ。自我。自分を自分たらしめているものの核心を。
本当は……何だろう。何か違う気がする。この苦しみは何か違う。自分が置かれた現実の状況。そこから生まれる精神状態。苦しみ。もっと根本的なこと。何かが根本的に間違っている。
いやいやいやいや、しかし、しかしだ。根本的すぎるだろう。そこまで疑ってしまっては、自分そのものが成り立たなくなる。苦しいとかなんだとか、全部嘘になる。そんなことは……そんなことが。
そこに思い至った瞬間、胸のつかえが取れて、嘘のように苦しみが霧散して……そう、嘘だった。嘘だったから。苦しみも、苦しんでいる自分も、自分がしがみついている諸々のことも。もっと言えば自分そのものが根本的に嘘だったから。
ああ、何だろう。何言ってるんだろうこれ。
狂い始めているのか。
それでも構わん。苦しみから解放されるなら。
末詣で
年末です。師匠も走る師走です。
年が明けたら大勢の人々が神社に押し寄せ、初詣という年に一度の(文字通り)神イベントに出向くわけですが、みなさん何しに神社に行きますか?
お賽銭を放り投げて神様にお祈りしますか?
どんなことをお祈りしますか?
無病息災?商売繁盛?それとも良縁に恵まれますように?
僕はそんなみなさんに申し上げたい。
一年の初めにお祈りして、それで終わりにして良いのだろうかと。
一年が終わるこの時期、年初にお祈りしたことがもし叶っているのなら、報告がてら感謝の気持ちを込めて神社へお参りに行くのはどうかと。
たとえ叶っていなくても、とりあえずこの一年間を生きてこられたことに感謝の気持ちを捧げるため、10円玉の一つでも奉納に行ってみてはどうかと。
僕は何年か前からそんな考えを抱くようになり、初詣の前に末詣(まつもうで)というのをやっています。
すいませんウソです。ついさっき思いつきました。
思いついただけで、まだ実行に移していません。
僕は神社の回し者ではありませんし、神社に祭られている神様とか神道を信じているわけでもありません。
ただ、神社という空間はわりと好きです。
昔から守られてきた鎮守の森や、そこに集まる人馴れした鳩や烏や雀。放し飼いにされている鶏。たまに現れる猫。池の鯉や亀。砂利を踏む音。なんとなく落ち着いた気分になり、心が静まります。
それが初詣の時期になると様相は一変。境内には露店が並び、様々な食べ物の焼かれる匂いと煙が立ちこめ、騒がしい人々で充満します。静かな信仰の場は一夜にしてお祭り騒ぎのカーニバル。
しかしそれもまた一興というもの。たまには良いではありませんか。日常に倦み疲れた人々が、普段は訪れることのない神社でひとときのハレを楽しむ。きっと本殿に祀られた神様も喜んでいることでしょう。知らんけど。
そういうことで、ちょっとした思いつきですが、明日の大晦日は末詣を実行してみようかと思います。たぶん、初詣に備えて宮司さんや巫女さんや、テキヤさんたちがバタバタしてるんじゃないかな。そういう神社の姿を見てみるのも、ちょっと面白いかもしれません。
真面目な人だってよく言われるが
職場の上司や同僚、友達や、親にまで言われる。
嫌ではないけど、嬉しくもない。
自分がどれだけ真面目でないか、自分が一番よく知っているからだ。
周りの人間は、表面上の言動だけ見て自分のことを真面目だと評するのだろう。
そういうことを言われるたび、真面目って何だろうと思う。
自分の言動について、真面目だねと言われても、自分ではそれが真面目なことだという意識はないし、真面目にしようと常日頃心がけているわけでもない。自分にとって当たり前で普通のことが、人には「真面目」と映ることがあるらしい。
しかし、自分を真面目だと評する人たちを見ると、自分より彼らのほうがよほど真面目ではないかと思う。世間的には不真面目とされる面もあるのだろうけど、その不真面目さのレベルは至って無害なものだと思う。
自分はどうかというと、自分の内面にある不真面目さというか、表に出せない部分の性質というのは、単なる不真面目さと違って、何か根本的なところで世間の常識というか良識から大きく外れているような気がする。
とは言っても、それは表に出せないというよりは、普通に日常生活を送る上では表に出す必要もないので、何らかの犯罪に結びついたり、誰かに害を及ぼすという性質のものではないが、いわゆる常識的な倫理観から見ると、人としてどうなのかという性質のものではあると思う。
そんなことを自分で書いていても、じゃあそれの何が具体的にいけないのかというのはよくわからない。もしかすると誰でもそういう面を持っていて、表に出さないだけなのかもしれない。
ただ、自分のことを真面目と評する人たちの価値観や倫理観から、自分の内面のそれを見たとき「なんてひどい野郎だ」という評価が出てくるのではないかという気はしている。
真面目って一体何だろうと思う。
結構うすっぺらでつまらない概念なんじゃなかろうか。
心の奥底に答えなんてない
答えはいつだって目の前にある
ただ自分がそれを見たくないから
隠しているだけなんだ
悩みや苦しみは
運命のせいではなく
誰かのせいでもなく
トラウマのせいでも
因果応報でもない
悩んでいるのも
苦しんでいるのも
そこから抜け出そうとあがいているのも
あきらめているのも
すべて自分
答えは 自分
自分の中や
心の奥底ではなく
目の前のありのままの自分
いちばん見たくない自分
どんなに苦しくても
どんなに辛くても
それだけは隠し通したい自分
目の前にあるものを見ないで
複雑に絡み合った因果や
心の奥底に答えを求めるのは
違うだろう
人の心はなんて複雑なんだ
真実はなんて単純なんだ