ペンデュミオンの螺旋

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体と心と愛と憎しみ ~結婚と愛、そして性~ chapter3

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 愛ゆえに、人は傷つく。

 愛ゆえに人は苦しまねばならぬ!!愛ゆえに人は悲しまねばならぬ!!

 こんなに悲しいのなら、苦しいのなら

 愛などいらぬ!!

  かの聖帝サウザーが残した言葉です。

 誰しも、人を愛したことがあるならば、多かれ少なかれこのような思いを抱いたことがあるのではないでしょうか。

 それはさておき。

 体で愛することと心で愛することは、果たして同じことなのか、全く別のものなのか。人により、時と場所により、同じであったり、別物であったりするでしょう。

 他者との同一化による自己の安定。簡単に言えば、それが恋愛の正体です。他者を通じて自己を愛すること。その愛が人生に幸福と充実をもたらすことを知り、やがて人は愛する他者に執着を覚えるようになる。自分が幸せであるために他者を必要とするのです。その他者を奪われるということは、自分の幸福を奪われることです。だから浮気されると傷つき、不幸になり、自分を不幸にした相手に怒りを覚え、憎むようになる。

 愛する人が自分以外の者と性的関係を結ぶ。これは性的権利の侵害、性的所有権の侵害です。愛する人は自分の所有物であり、性的関係はその所有権を確認するための証拠となります。彼または彼女もまた、自分を愛しているということの証拠として性的関係がある。それが自分以外の者と性的関係を結んだとなれば、愛の証拠は失われ、愛されているという確信が消えてなくなります。

 相手はもう自分を愛していない、自分を所有していない、自分に執着していない。自分は必要とされていない。自己同一性は崩れ、精神的な拠り所が失われる。不安。恐れ。その反動としての怒り、憎しみ。

 人はこれほどまでに性というものを愛の証として信用しながら、同時に性を蔑み、忌み嫌います。これは、愛と性を混同してしまうことから生まれる矛盾ではないかと、私は考えています。

 どこまでが肉体的欲求と快楽なのか、どこからが愛なのか。実際にはどこにも境界線はなくて、両者はどこにも交わるところがないのではないか。なぜならば、愛と性、その両者の間に人の心があるから。心を挟んで、愛と性はどこまでも交わることなく平行線を辿っている。しかし心は両者と接する面を持っているので、勝手にどこかで交わっているのだろうと勘違いしてしまうのではないか。そんな風に考えるのです。

 愛に接すれば、勝手に愛のイメージを作る。性に接すれば、勝手に性のイメージを作る。そしてふたつをごちゃ混ぜにして、自分を安定させる材料にしてしまう。本当はどちらも心の思い通りになるようなものではないというのに。

 愛も性も、心が作り出した社会の型にはめ込むには、あまりにもダイナミックでプリミティブなものなので、必ずその型をはみ出してしまう。制度としての結婚が不幸の温床になっているのは、そのためであろうと思います。

 人の心も、その表れたる社会も、愛や性を解放することを決して許さないでしょう。もしも解放することを望むなら、いち個人として、社会からはみ出すしかない。私にはそんな勇気はありませんので、このままおとなしく結婚制度に縛られて生きてゆくことでしょう。子供が可愛いからね。

 ということで、今回でこのシリーズはおしまい!

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