心は空気で出来ている

空気を読むな、呼吸しろ。

電脳化された意識と哲学的ゾンビ問題

哲学的ゾンビ [Explicit]

見ているものすべてが 作り物に見えた

夢との区別もわからず 狭い箱の中でよんでいる

 3回連続でお送りする、電脳化について考えるシリーズ最終回。

gokumatrix.hateblo.jp

 前回までの考察で、意識の電脳化ということについて、人が最も心配するのは自分がどうなるかだ、という結論に至った。

 脳の機能や、個人的、社会的な知識をコンピュータに移すことができたとする。そこで、人の脳に変わって、個人の意識がコンピュータ上に再現されるに至ったとする。そこでひとつの疑問が湧く。

 その意識は、外面的には、かつて存在した個人の意識だったものと同じようにふるまうかもしれない。だが果たしてそこに、自我はあるのだろうか。

 いわゆる「哲学的ゾンビ」問題だ。

 コンピュータに転送された意識に、クオリアはあるだろうか。そして、そこに「私」は存在するだろうか。

 相手が人間であっても、そこに果たして自分と同じような意識、クオリア、「私」はあるだろうかという疑問を持つことはできるが、自分と同じように人の身体を持ち、コミュニケーションがとれるなら、相手にも自分と同じように意識はあるのだろうと、感覚的に信じることはできるし、現に信じている。

 これがコンピュータ相手となったらどうだろう。人間よりもはるかに、相手の意識の存在を疑う余地が大きくなるのではないか。なにしろ、相手の意識は人の肉体でも脳でもなく、機械の上で機能しているのだから。

 さてそこで、ひとつの可能性が見えてくる。

 肉体を持った人の意識と、電脳化された意識との関係はどうなるだろうか。ある程度の電脳化が進み、コンピュータの上で機能する意識が社会に浸透した頃、肉体を持った人間は、電脳化された意識を、人間としてみなすだろうか。また、電脳化された意識は、人の肉体に宿る意識を、人間という存在をどうみなすだろうか。

 社会に浸透し始めた電脳を見て、「彼ら」を恐れる人間が現れるのではないか。そして、「彼ら」が人間としての肉体を持たないがゆえに、「彼ら」を抹消することに、殺人以上の抵抗を持たないだろう。そして、人間の社会を取り戻そうとして、電脳化された意識を根絶しようとさえするかもしれない。

 逆に、電脳化された意識は、人の肉体に宿る意識を、自らとは異なる存在として、肉体の軛を離れた自身よりも劣った存在とみなし、もし人間が自分たちを根絶しようと動き出したら、社会に仇なす存在として、躊躇なく排除しようとするかもしれない。

 その結果、人間と電脳との間に、果てしない戦いが繰り広げられることになる。そこに出現するのは、『ターミネーター』や『マトリックス』で描かれたような、暗黒の未来である。

 将来、人間を滅ぼそうとするのは、発達したAIではなく、電脳化されたかつての人間たちかもしれないのだ。

 これ、SFのネタとしてちょっと新しくない?もう誰かが考えついてるかな。AIが敵になるより、よっぽどリアリティあると思うけどな。いつの世も、人間の敵は人間だからね。

 さておき、電脳化されようがされるまいが、人は常に「私」とは何かを突き詰めていかねばならない存在なのだろうと思う。果たして意識は、電脳化されてなお「私」とは何かを問い続けるだろうか。

 ということで、本日はこれにてお粗末。