足もとに絡みつく 赤い波を蹴って マシンが叫ぶ
狂った朝の光にも似た ワルサーP38
昨日の記事を書いた後も、あれこれと考えを巡らせていたら、勢いが止まらずに、しばらくいろんな考えが勝手に頭の中に湧いてきた。
この先、電脳化が実現したら、意識はどういう扱いになるのか、という話。
電脳化、すなわち、脳をコンピュータなり、それに付随するデバイスなりに接続するという形から、脳の機能をコンピュータに移転する、個人の意識をまるまるコンピュータに転送する、というところまでを含めた電脳化について、個人的に思うところがある。
おそらくほとんどの人は、意識を自分のものとして、肉体と同様、個人に属するもののように考えている。自分の身体、自分の意識、自分の考え、自分の心。そういった感覚が生まれるのは、自然なことなのかもしれないが、実際には錯覚に過ぎないと思う。
人の意識は、ほぼ誰でも同じように機能する。平たく言えば、人の心は、世界中どこの誰の心でも、大して変わらない。国によって、地域によって、各家庭によって、あるいは政治、文化、教育などによって違いはあるけれど、それらは表層的な違いでしかない。
例えて言うなら、Windowsが、PCによって、あるいはアカウントによって、カスタマイズされた形で機能しているようなものだ。ハードが持つ性能により、接続されたデバイスなどにより、提供される性能や機能は異なるが、大本は同じOSである。
個人の意識もそれと同じで、カスタマイズされた「人間の意識」なのだ。あなたがどこの誰であるかに関わらず、元を辿れば、「人間の意識」としてこの世に出荷された、まっさらなOSなのである。それが、個々人が置かれた環境や、教育、経験によってカスタマイズされ、やがては「自分の意識」として認識されるようになる。つまり「自分の意識」とは、「人間の意識」のデスクトップを、個人用にカスタマイズしたものであると言える。
そうすると、「自分」というのは、「人間の意識」に作用し、個別にカスタマイズしてきた環境や、経験の総和である、ということになる。「自分の意識」という表現には、意識が自分に属するものである、という意味が含まれるのだが、本来は逆で、自分が意識に属しているのだ。自分が意識を持っているのではなく、意識の上に自分が成立しているのだ。
同じ理由で、人の身体もまた、自分に属するものではなく、自分の所有物でもない。
もっと言えば、この世界のチリひとつでさえ、自分に属するものでも、自分の所有物でもない。
最終的に人間が脳も含めた肉体を捨てる決断を可能にするのは、自分の肉体、とくに脳と自分自身の意識が別に一体不可分のものではないと思えるかどうかにかかっている。自分自身の意識とは、たまたま人間の脳に寄生した情報的な生物であり、自分たちは遺伝子ではなくミームで繁殖している存在だ。自分たちの本体は社会にある知性だ。そう思えるかどうかだ。
人間の本体は心臓でもなければ脳でもないという価値観 - 続・はてなポイント3万を使い切るまで死なない日記
にも関わらず、なんでもかんでも「自分の〇〇」と言ってしまう、この「自分」という意識は一体何なのだろうか。そこが大きな問題だ。
それを踏まえて最初の話に戻ると、意識が自分のものではなく、人間という生き物に備わったひとつの機能だとすると、それをコンピュータ上で再現することに、何の問題があろうか。人の上で機能しようが、コンピュータの上で機能しようが、意識は意識だ。
それでもまだ電脳化について心理的抵抗があるとするなら、それこそは「自分」という意識のなせる業である。問題は倫理ではない。人が最も懸念するのは「自分がどうなるか」だ。
長くなってきたので、この続きはまた次回ということで、本日はこれにてお粗末。
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