心は空気で出来ている

空気を読むな、呼吸しろ。

幸せってなんだぁっけなんだぁっけ、ポン酢しょうゆ……これ前も使ったわ

 先週書いた記事の中で、冗談で「来週は300超えるんじゃね?」とか言ってたら本当に超えました。アクセスカウントの話です。またしても「妖怪ウォッチ+くつだる。」のキーワードで流れ込んでくる人が続出。「くつだる。」の放送が毎週水曜日なので、放送があるたびに妖怪ウォッチとの関連を調べる人が出るんですね。

 必ず「妖怪ウォッチ」とセットなんですよ。当然ちゃ当然ですが。しかも「くつだる。」ってちゃんと「。」をつける人はまれで、ほとんどの人が「くつだる 妖怪ウォッチ」「妖怪ウォッチ くつだる」さらに「妖怪ウォッチ くつだる パクリ」で検索して来るんです。キャラのコンセプトが被りまくりで、両方とも「イマドキ妖怪」という呼び名を使ってるもんだから、パクリと思われても仕方ないんですが。しかし今のところ、パクリどうこうで騒ぎになってる感じはありませんね。

 「くつだる。」は講談社のモーニングでの連載が2007年(Wikipedia調べ)らしいので、現代の日常に潜む妖怪というコンセプトを立ち上げたのはこっちが先でしょうね。2007年というと、レベルファイブはまだ「イナズマイレブン」作ってた頃じゃないですか。社長の日野晃博さんの頭の中にはもうあったんだよと言われてもそうですかとしか言えないんで、どっちが先かと言えば「くつだる。」なんでしょう。

 どっちがどっちでも一向に構わないんで、来週もさらなるアクセスアップを期待しているごくまです。

 前置きが長くなりましたが、こっからが本題です。


完璧主義を克服すれば幸せを感じることができるはず - 生きづらいふ

 えんぴつメガネさん(id:enpitsu_megane)のブログ、文章は固ゆでな感じですけど僕は結構好きで、もちろん読者登録してるんですが「俺も若い頃はこんな感じで悩んでたなぁ」と勝手に共感しています。なので、例によって勝手な解釈でこのテーマに切り込んでみようと思います。

 キーワードは「完璧主義」「自己嫌悪」「満足」「幸せ」こんなところでしょうか。言葉というのは抽象化・仮想化の道具ですから、細かいニュアンスとか全然違っててもとりあえず通じてしまうのが難点。なので元記事のえんぴつメガネさんがこれらの言葉に込めている意味と、僕が込めている意味との間には間違いなく差があります。という前提で読んでいただけるとありがたい。

 まず、完璧というのは概念であって現実にはないということ。完璧な球体が、理論上は存在しても現実には存在しないのと同様です。誰かが完璧だと思うことも、ほかの誰かにとっては完璧でないかもしれない。完璧という言葉には絶対的な到達点みたいなニュアンスがありますが、現実には相対的な概念です。ていうか言葉はそもそも相対的です。これが、完璧の呪縛を解く考え方のひとつ。

 もうひとつは、完璧を目指す自分に目を向ける考え方です。完璧を目指すということは、自分にはそれができる、完璧な人間になれる、完璧な状態を実現できるという前提があります。マジで?それってうぬぼれじゃね?超がつくレベルのナルシストじゃね?ないわ~、それはないわ~。という考え方です。

 これは言わば自己否定なんですが、自己嫌悪ではないんです。感情的に「自分なんか嫌いだ!」ではなくて、単に「それ間違ってるよ」ということ。ここ間違いやすいんで、注意が必要です。その自己嫌悪ですが、自己嫌悪なんてものは本来あり得ないことなんです。誰でも普通にやってしまいがちなんで、当たり前に受け入れられてる感がありますが、実はまやかしです。ひっかけ問題です。

 自分は一人しかいないし、その心も本来はひとつしかありません。でも心はそれ自身の中では万能の神みたいなもんで何でもできちゃうから、自分を分裂させてあたかも二人、三人いるかのように振る舞うことができる。自分自身を仮想化できるわけですね。

 自己嫌悪という心理状態は、この仮想化技術を使って実現されています。自分が自分自身の価値観や倫理観にそぐわないことをやっちまった場合に、やっちまった自分と、その価値観や倫理観の化身としての自分とを分離して、「自我」の基盤になっている価値観・倫理観を守るわけです。ちょっとややこしいですか?本当はすごく単純なことなんですけど、言葉で説明するとややこしくなります。僕の低度な文章力で表現すればなおさらで申し訳ない。

 つまるところ、嫌われてる自分と嫌ってる自分とはひとつで、鏡に向かって「おまえなんか嫌いだ」って言ってもしょうがないよね、ってことに気づくと、自己嫌悪は終わります。自己の仮想化と分離は、いろいろな場面で自我を守るために使われるテクニックですが、やりすぎると統合不全を起こして、いわゆる「統合失調症」と呼ばれるレベルに入り、いろいろ面倒ですので早めに捨てることをお勧めします。

 さて次に「満足」と「幸せ」についてです。だいたい両者はセットで考えられてて、満足できれば幸せになれるという信仰がありますね。とりあえずその「満足=幸せ」みたいなボンヤリした信仰をやめます。満足と幸せは別物なので。幸せからくる「知足」はあり得るんですが、満足→幸せはあり得ないです。

 満足とは、欲求が満たされる快感のことです。欲求には目的があり、目的には具体的な形があります。食、金、性、所有、その他もろもろの欲求がありますが、みんな「何か」を欲することです。欲するものが何であるかをわかっていて、それが手に入るなり実現するなりして満足感が生まれる。

 だけど「幸せ」は、はっきりした目的じゃなくて、漠然としたものですよね。よく「幸せの形はひとそれぞれ」なんて言いますが、決まった形というものがない。みんな幸せになりたいけど、どうすれば幸せになれるのかわからない。何が自分を幸せにするのかわからない。それでいろいろ苦労するわけです。

 そこで考えてほしいのが、わからないものを追求できますかってことなんです。知らないものを目的にできますか?金や物なら、それを手に入れる方法はいくらでもあります。自分が実行できるかどうかは別としてですが、とにかく何らかの手立てはあるわけで、努力のしようもある。でも、幸せとは何かを知らないまま、それを目的にすることはできないし、それに向かって努力のしようもないでしょう?

 だからみんな〇〇が手に入れば、〇〇になれれば、〇〇だったら幸せになれる、なんて具合に自分の欲求と幸せを混同するんですよね。でも実際その欲求が満たされると、最初はひゃっほう!って喜ぶけど、時間が経つにつれてその喜びもしぼんでいきます。下手すると、手に入れた瞬間に「あれ?」ってなることもある。「思ってたんと違う」って。

 それは幸せじゃなくて満足だからです。満たされればそれで終わり。どんだけ空腹でも、お腹が膨れれば「もういらね」ってなるし、どんだけ美人でも、付き合いだしたら他の美人に目が移る。そんなもんでしょう。え、違う?そりゃ今だけですよ。

 じゃあ、果たして満足じゃない幸せなんてあるのか?あります。STAP細胞よりは確実にあります。ただ、STAP細胞みたいにはっきりしたものではないので、直接それを目的にすることができないんです。幸せになりたい!と思っても、それは無理。幸せは目的じゃないし、目的にできないから。

 幸せは、たぶん何かの副作用なんですよ。その何かって何なんでしょうねぇ……はいここまで!もうこれ以上は喋れません!ここから先を聞きたい方はお金払ってちょうだいね~、っていうのは怪しい宗教。僕はお金はいりませんが(もらえるならもらいますが)喋れません。黙秘権を行使します。

 そんな冗談はさておいて、幸せが何か知らないんだったら、そんなもの追いかけてどうすんのって話です。もっと具体的に、お金とか恋人とか結婚生活とか、地位とか名誉とか、そういうものを追いかけたらいいんです。でもたぶん、そういうんじゃなくて、もっと別なものが欲しいんでしょうね。何かわからないけど「欲しい」っていう気持ちがあるんでしょう?何が欲しいのかわからないまま、何かを求めてる、そんなDAYSなんでしょう?

 何ものにも満足できないってことは、そりゃ確かに苦痛ではあるんですが、別に誰に責められることでもなく、善悪とは別次元の個人的な問題ですよね。だから、何も無理やり目的を作って満足を追い求める必要なんてないんですよ。手に入れても満たされないものを追いかけるなんて、ひたすら虚しいだけでしょう。満足の追求ってのは、別の角度から見ると「正体不明の欲求」からの逃避なんですよ。追いかけてるようで、実は逃げてるんですよ。

 その「正体不明の欲求」から逃げずにいたらどうなるんでしょうね。エネルギーにベクトルを与えないまま放っておいたらどうなるんでしょうか。SATISFACTIONをGETできないまま、欲求不満に耐え抜いたら何が起きるんでしょうか。あー言えない!こっから先は言えないなぁ~。別に聞きたかないですかそうですか。

 なんかダラダラ書いてきましたが、例によってオチも見つからないし疲れちゃったんでとりあえずここで締めますね。ここまでお付き合いいただいた方、ありがとうございます。中途半端ですみません。何か考えるきっかけにでもなれば幸いでございます。

 以上!