心は空気で出来ている

空気を読むな、呼吸しろ。

炭酸水でなんでも割るぞの巻

 数年前から、子供は毎朝小さなボトルの乳酸菌飲料を飲んでいます。いわゆるヤクルト的なやつ。でもヤクルトはやたらと高いので、スーパーの自社ブランド品みたいな安いほうを買います。

 年長に上がり、体も大きくなってきた息子は、この春からほぼ毎朝ボトル2本空けるようになりました。そうなると、8本とか10本のパックを買ってきてもすぐなくなります。なので、最近は小さなボトルをやめてマミーの900mlパックを買うようになりました。

 ヤクルト系のミニボトルの容量がだいたい65ml、プライベートブランドの10本パックが200円として、2.6ml/円。マミー900mlが安いスーパーで100円とすると、9ml/円。1mlあたりのコストはなんと3分の1以下になります。

 そんなセコセコした計算をもとに、もっぱらマミーを購入しています。

 で、僕は炭酸水が好きで1.5Lのペットボトルを毎回2~3本まとめて買いまして、そのまま飲んだり焼酎を割ったり、普通のジュースを割ったりして飲むのが好きなんです。コーラとかファンタとか、C.C.レモンとか三ツ矢サイダーなどの炭酸飲料、ポンジュースなどの100%ジュース、アクエリアスとかDAKARAみたいなスポーツドリンク系も炭酸水で割ります。

 炭酸水でジュースを割るようになってから、普通のジュースをそのまま飲むと甘さが強すぎて途中で挫折することが多いです。買ってそのままのジュースは基本的に「原液」扱いです。なんでも薄めて飲むのが当たり前になってしまいました。

 そんな僕がマミーを割らないわけにはいきません。当然試しました。

 はい、予想通りの味です。よくある乳性炭酸飲料と同じで、それが薄味になっただけです。スコールとかカルピスソーダとか、あんな感じ。色はちょっと肌色ですけど、味はだいたい同じ。普通においしいです。あえて率直に表現すると、

 マミーを炭酸水で割った味です。

 炭酸水好きな僕の血を引いたのか、息子も炭酸ジュースはもとより味のない炭酸水も大好きで、1歳くらいから平気で飲んでいました。飲むたびに「しゅわしゅわ……」と言いながら手のひらを動かすアクションをするのが可愛くて、好きなだけ飲ませていました。

 3歳の時、お腹が痛いというので医者に連れて行ったら、ガスが溜まりすぎているが心当たりはないかと言われ、炭酸水をよく飲むと言ったらそれですね、しばらく飲ませないようにと言われたので1年ほど飲んでいなかったのですが、今年から解禁となり、暖かくなってからは毎日のように炭酸水を飲んでいます。ただ、もうあの可愛いアクションは見せなくなりました。

 もちろん、またガスが溜まってお腹が痛くなるとまずいので、あまり飲みすぎないように注意しています。寝る前に飲むと必ずおねしょをするというのも理由です。

 というわけで、普通のジュースでもゲロ甘と感じるあなたには炭酸水で割ることをおすすめしますよ!

  ちなみにごくまのお気に入り炭酸水はサンガリアのライムフレーバーです。

 

 

自動運転と駐車違反

 なんだかもう更新が数か月おきになりつつあるっていうかなってしまっている当ブログですが、みなさまいかがお過ごしでましょうか。気が向いた時だけ記事を書く男、ごくまです。

 テレビなど様々なメディアで取り上げられる機会が増えた人工知能・AI。チェスの世界チャンピオンを負かしたのを皮切りに、ゲームの世界では将棋、囲碁と、次々にその世界の強者を負かすというわかりやすいアピールで世間の注目を集めています。

 調べてみると、ゲームだけでなく様々な分野で飛躍的な能力向上を見せているようです。画像認識、音楽、文芸、医療などなど。その中で僕がいま注目しているのは自動運転車。これはもうね、今みたいな深層学習でどーたらこーたら言い出すよりずっと前から期待してたんですよ。なんなら10年以上前から、はよ実現しないかなーと思ってたくらいで。

 いえね、僕自身は車の運転好きですよ。車がないと不便極まりない田舎の暮らしですし。移動手段はもっぱら車。それだけに、運転しててヒヤッとすることもまぁまぁ経験するわけですよ。ヒヤリハットですよ。自転車の学生さんやらお年寄りやら、はしゃぐ子どもやら猫やらハトやら。

 ハトってなんであんなに呑気なんでしょうね。正面から近づいてるのに、ボンネットの死角に入って見えなくなってもまだ逃げないんですよ。そこからじりじり近づいてやっとバサバサ飛び立つくらい鈍くて。はよ飛べ―、どいてくれー、と思ってるのに、じっとこっち見てたりね。まさに「こっち見んな」ですよ。見てる暇あったら逃げろって話ですよ。

 そんなハトに代表されるように、車の運転には危険がつきものですよね。そして免許制といいながら、免許を取ってしまえばこっちのもんだとばかりに、無謀な運転をするドライバーをちょいちょい見かけます。なんで免許取った?と思うくらい危なっかしいドライバーも。

 さらに休日のドライブと違って、通勤ドライブというのは決まり切ったコースを毎日毎日運転するわけで、いい加減飽きてきます。朝晩は道が混むし、学生は自転車でぶっとばすし、小学生は横断歩道でもたもたするしで、これまた危険がいっぱいです。

 だからもう、みんな自動運転にして、ドライブを楽しみたい人だけマニュアルモードで運転すればいいんじゃね?と前から思ってたんですよね。今はマニュアル車というとクラッチ踏んでシフトレバーを自分で操作してギアを切り替える車の事ですが、そのうちオートマでも自動運転車じゃない車はマニュアル車と呼ばれるようになるんじゃないでしょうか。

 とまぁここまでは前置きで。本題は自動運転と駐車違反の関係ですよ。自動運転車が普及したら、駐車違反がなくなって警察の仕事がかなり減るんじゃないかと思ってるんですよね。

 完全自動運転となると、人が乗っているかどうかに関わりなく、目的地さえ設定すればそこまで走ってくれるわけですから、目的地近辺に空いてる駐車場がなければ、最寄りの駐車場に行ってもらうか、近場なら一旦家まで帰ってもらえばいいですよね。んで、用が済んだらスマホか何かで呼び出して迎えに来てもらう。わざわざ違反切符切られるリスクを冒してまで違法駐車する必要がなくなります。

 飲酒運転もなくなりますね。お酒飲んでても、乗ってるだけで運転はしないんだから。飲酒運転に絡む悲惨な事故は減る、高い罰金を取られる人も減る。

 一旦停止や一方通行を見落とすこともない、スピード違反もしない、完璧にルールを守る模範ドライバーが自動運転車と共に普及するわけです。

 人工知能は人間の仕事を奪うと言われていますが、お巡りさんの仕事もかなり奪われそうですね。それはそれで結構なことだと思います。

 いつ頃から普及し始めるのか、いつ「マニュアル車」の普及率を追い越すのか、まだまだわかりませんが、早くそんな未来が来ないかな、と個人的には思っています。

答え

この世には、たったひとつの答えがある。

 
その答えの中に、人が発し得るすべての問いに対する答えが詰まっている。
 
ゆえに、その答えはすべての問いを無効化する。
 
その答えは、問いの結果として生まれる類のものではなく、
初めから答えとして存在する。
 
つまりそれは、問いを持たない答えである。
 
人はその答えを知ることができない。
 
その答えはすべてを終わらせる。
 
その答えは因果を超えている。

人生 ~ありのまま今思ったことを話すぜ~

 これは君の人生だ。

 

 しかし、君はこの人生の所有者でも、支配者でもない。

 君は、君という人間がどのような人生を歩むか、

 日々の出来事をどう感じ、どのような感情を抱くか、

 何を考え、どのように行動するか、

 それを観察するためだけに存在している。

 人生における君の役割はただひとつ、観察することだけだ。

 君がどのような人間であるかを。

 

 ある意味で、君という人間はすでに完成されている。

 同じように、君の人生もまた完成されている。

 ゆえに、何一つ進歩せず、後退もしない。

 君が体験する成長や減退はあくまで見かけ上のものであり、

 完成されたプロセスの通過点に過ぎない。

 ただ、君という視点からは完成されたものが見えないだけだ。

 

 この世界のあらゆるものは変化し続けるが

 それは同時に何ものも変化しないということを意味している。

 変化するものと変化しないものがあるのではなく、

 視点の問題なのだ。

 一切が変化することと、

 一切が変化しないことは、

 同じコインの裏と表のようなものだ。

 物事は、見方ひとつで全く別物のように映る。

 そして君は、一度にひとつの見方しかできない。

 それが、君という構造の宿命なのだ。

 完成されたものが見えないというのは、そういうことだ。

 

 それと同じように、

 君が完全な存在であるということと、

 不完全な存在であるということは、

 君というひとつの存在の裏と表である。

 

 完全だから存在する。

 不完全だから見ることができる。

 

 

 何を言ってるかわからねーと思うが

 俺も何を言ってるのかわからねぇぜ。

シンギュラリティ ~技術的特異点への到達と、その先で気になるちょっとしたこと~

 あけましておめでとうございます!

blog.livedoor.jp

 さて新年のあいさつも早々に本題です。

 わりと近い未来に、世界はすごいことになりそうだっていう噂です。

 いろんな技術革新が起きてて、技術的特異点の到来ももはやSFや都市伝説のレベルではなくなってきている、ということらしいです。

 もともとSF好きなので、こういう話に興味はあるし、だいたい何を言ってるのか理解できます。

 ただ個人的に気になることがありまして。SFとかコンピュータとかAIとか好きな僕ですが、同時にオカルトとかスピリチュアリズムとか悟りなんかにも興味があって、そういうのは科学とは対極にある世界です。フィクションの世界では仲良く共存してたりしますけどね。

 気になることというのは、科学の爆発的な進化・発展は、人間のいわゆる精神世界をカバーできるのか、という問題です。いや違う、精神世界はたぶんカバーできる。人の心の中で起きる現象は全部再現できると思う。

 僕が言いたいのはですね。いわゆる「悟り」「真理」のようなものを、AIはどう理解するのか、ということです。

 僕自身が悟りを開いたわけではないので、悟りというものは実際どういうものか、それが本当に人の心の中で起こり得ることなのかどうか、実際のところはわかりませんけども、それに類するような「プチ悟り」みたいなものは誰しも経験があるのではないかと思います。

 ずっと悩んでいたことが、ある瞬間にふっと解消する。それまでの思考とは全く論理的につながりのない答えが突然湧いて出る。現実の状況は変わらないのに、それまで問題だったことが全く問題でなくなる。その瞬間に訪れる閃光と恍惚感。

 そこに何が起きているのか。無意識のうちに何かが進行していて、本人も気づかないところで問題解決のプロセスが動いているのか。それをコンピュータは解析して再現できるようになるのか。

 もっと言えば、いわゆる覚者、ブッダやキリストや、マホメットやらなんやら、他にもいろいろいると思いますが、そういう人たちが到達したとされる「究極の悟り」「絶対的な真理」みたいなもの。それらは様々な宗教として間違いなく人間の社会や文化、倫理観に深い影響を及ぼしていますが、宗教として広まる以前の原点、悟りそのものをコンピュータは理解できるのかどうか。

 プチ悟りにしろ、究極の悟りにしろ、その現象は完全に個人的なもので、悟った本人にしか本当のところはわからないんですよね。「おれは悟ったぜ!」と主張する人がいたとしても、本当かどうか他人にはわからない。その人の話がすごく感動的で納得できたりすると「ほぉ~、この人の言うことは真実だ、きっと悟っているに違いない」って周りの人間が思うこともあるだろうけど、それは単なる予想でしかなくて、話を聞いた人がそれだけで悟りを開けるわけじゃないし、実際になにをどう悟ったのか、悟りとは何かっていうのは、本人にしかわからないでしょう。

 悟りというものが知の領域にあるのなら、言語化して敷衍することができると思いますが、ご存知の通りお経や聖書を読んだからって悟りを開けるわけじゃない。悟ったような気分になることはあるかもしれませんけどね。

 悟りというものがそういう性質である以上、例えばコンピュータが悟りを開いてしまったとしても、人がそれを理解することはできないはずなんです。コンピュータが「慈悲」だの「諸行無常」だの「色即是空」だのと言い始めたら、もしかして悟ってんのかなということになりますが、実際のところはどうなのかわからない。

 例えば、人の脳とコンピュータを接続して、いわゆる電脳みたいに意識とコンピュータがシンクロするようになって、そこでコンピュータの悟りを人の意識に伝達できるのかどうか。ある種の薬を服用したときのように、意識が拡張して悟りを開いちゃったみたいになるのかどうか。

 どうなんだろう?って思うんですよ。聞いた話によると、ごく普通の人、特に何か信仰心が篤いわけでも、修行してるわけでもない人が、いきなり悟りを開いたような意識の覚醒を体験することがあるらしいです。そういう場合、その人はその体験があまりにも素晴らしいので、普通の意識状態に戻ったとき、すごい禁断症状みたいなものに悩まされるそうです。それこそ下手すりゃ変な薬に手を出しかねないくらいのね。

 コンピュータが、薬が生み出す感覚のように、たとえ疑似的なものであっても「悟り」や「真理」を再現できるとしたら、それは人間に何をもたらすのかと。何の準備もなしにいきなりそういうものが意識の中で展開されたら、発狂してしまうんじゃないか、とか。

 僕が好きな漫画で「外道の書」っていうのがあって、細かいところ端折って説明すると、なんでも願いが叶う本を集めて、ある少年が「究極の真理」を教えろ、ってその本に願い事をするんです。んで「究極の真理」を見た少年はその場で自殺するっていう展開があるんです。僕はそれ見て「ああ、あり得るかもな」って思いました。

 たぶん「真理」っていうのは、普通の人間にとってもんのすごい恐ろしいものなんですよ。いきなりそれを見せられると精神が崩壊するくらいの。で、真理や悟りを求めて修行している人っていうのは、そういう恐ろしいものに耐えられる精神力を備えるために修行してるんじゃなかなと思うんです。備えたからって悟れるとは限らないのが辛いとこですが。

 いやね、わかりませんよ。本当のところはどうなのか。僕自身が悟ってるわけじゃないし、真理とは何かって知ってるわけでもないですから。ただ、こういうことなんじゃないかな~って思ってるだけで。実際は全く的外れかもしれない。だとしても、どうなのかな~と思うんですよ。

 例えばの話、コンピュータが悟りや真理というものを解析して、それを人の意識に無理なく移植することができたとしたらどうだろう。みんなが仏陀やキリストみたいになってしまったらどうなるんだろう。平和とか平等とか慈悲とか愛とか、そういうものを人間世界に示した覚者が量産されるようになったら。それ以前に、コンピュータがそういう意識を手に入れた時点でどうなるのか。なんかちょっとディックの「ヴァリス」っぽい?違うか。昔一回読んだだけで、どんな内容だったかあんまり覚えてないしな。

 そこまで考えてふと思いついたことが。コンピュータの知能が人間をはるかに超えてどこまでも行ってしまった末に、宇宙を再生産することになったらどうなんだろう。大友克洋の大作「AKIRA」の中で、アキラは宇宙を再現しようとしていましたが、もしかしたら科学技術の究極の発達は宇宙の再生産で幕を閉じることになるのかもしれない。あるいは幕を閉じるんじゃなくて、次々に新しい宇宙を生み出し続けるとか。

 あれ?ということは、今あるこの宇宙、この世界も、かつてどこかで究極まで発達した知性が作り出したものかもしれない。人間が神とか創造主と呼んでいるのは、そういう存在かもしれない。で、そういう存在はもう人類の科学技術とか、その特異点から先の爆発的進化のさらにずっとはるか先にいて、この世界を見ているのかもしれない。

 この先人類の未来がどう展開するかはわかりませんが、僕を始めとして(w)みんなが幸せになれればいいな、と思う正月なのでした。ちゃんちゃん。

 

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