心は空気で出来ている

空気を読むな、呼吸しろ。

答え

この世には、たったひとつの答えがある。

 
その答えの中に、人が発し得るすべての問いに対する答えが詰まっている。
 
ゆえに、その答えはすべての問いを無効化する。
 
その答えは、問いの結果として生まれる類のものではなく、
初めから答えとして存在する。
 
つまりそれは、問いを持たない答えである。
 
人はその答えを知ることができない。
 
その答えはすべてを終わらせる。
 
その答えは因果を超えている。

人生 ~ありのまま今思ったことを話すぜ~

 これは君の人生だ。

 

 しかし、君はこの人生の所有者でも、支配者でもない。

 君は、君という人間がどのような人生を歩むか、

 日々の出来事をどう感じ、どのような感情を抱くか、

 何を考え、どのように行動するか、

 それを観察するためだけに存在している。

 人生における君の役割はただひとつ、観察することだけだ。

 君がどのような人間であるかを。

 

 ある意味で、君という人間はすでに完成されている。

 同じように、君の人生もまた完成されている。

 ゆえに、何一つ進歩せず、後退もしない。

 君が体験する成長や減退はあくまで見かけ上のものであり、

 完成されたプロセスの通過点に過ぎない。

 ただ、君という視点からは完成されたものが見えないだけだ。

 

 この世界のあらゆるものは変化し続けるが

 それは同時に何ものも変化しないということを意味している。

 変化するものと変化しないものがあるのではなく、

 視点の問題なのだ。

 一切が変化することと、

 一切が変化しないことは、

 同じコインの裏と表のようなものだ。

 物事は、見方ひとつで全く別物のように映る。

 そして君は、一度にひとつの見方しかできない。

 それが、君という構造の宿命なのだ。

 完成されたものが見えないというのは、そういうことだ。

 

 それと同じように、

 君が完全な存在であるということと、

 不完全な存在であるということは、

 君というひとつの存在の裏と表である。

 

 完全だから存在する。

 不完全だから見ることができる。

 

 

 何を言ってるかわからねーと思うが

 俺も何を言ってるのかわからねぇぜ。

シンギュラリティ ~技術的特異点への到達と、その先で気になるちょっとしたこと~

 あけましておめでとうございます!

blog.livedoor.jp

 さて新年のあいさつも早々に本題です。

 わりと近い未来に、世界はすごいことになりそうだっていう噂です。

 いろんな技術革新が起きてて、技術的特異点の到来ももはやSFや都市伝説のレベルではなくなってきている、ということらしいです。

 もともとSF好きなので、こういう話に興味はあるし、だいたい何を言ってるのか理解できます。

 ただ個人的に気になることがありまして。SFとかコンピュータとかAIとか好きな僕ですが、同時にオカルトとかスピリチュアリズムとか悟りなんかにも興味があって、そういうのは科学とは対極にある世界です。フィクションの世界では仲良く共存してたりしますけどね。

 気になることというのは、科学の爆発的な進化・発展は、人間のいわゆる精神世界をカバーできるのか、という問題です。いや違う、精神世界はたぶんカバーできる。人の心の中で起きる現象は全部再現できると思う。

 僕が言いたいのはですね。いわゆる「悟り」「真理」のようなものを、AIはどう理解するのか、ということです。

 僕自身が悟りを開いたわけではないので、悟りというものは実際どういうものか、それが本当に人の心の中で起こり得ることなのかどうか、実際のところはわかりませんけども、それに類するような「プチ悟り」みたいなものは誰しも経験があるのではないかと思います。

 ずっと悩んでいたことが、ある瞬間にふっと解消する。それまでの思考とは全く論理的につながりのない答えが突然湧いて出る。現実の状況は変わらないのに、それまで問題だったことが全く問題でなくなる。その瞬間に訪れる閃光と恍惚感。

 そこに何が起きているのか。無意識のうちに何かが進行していて、本人も気づかないところで問題解決のプロセスが動いているのか。それをコンピュータは解析して再現できるようになるのか。

 もっと言えば、いわゆる覚者、ブッダやキリストや、マホメットやらなんやら、他にもいろいろいると思いますが、そういう人たちが到達したとされる「究極の悟り」「絶対的な真理」みたいなもの。それらは様々な宗教として間違いなく人間の社会や文化、倫理観に深い影響を及ぼしていますが、宗教として広まる以前の原点、悟りそのものをコンピュータは理解できるのかどうか。

 プチ悟りにしろ、究極の悟りにしろ、その現象は完全に個人的なもので、悟った本人にしか本当のところはわからないんですよね。「おれは悟ったぜ!」と主張する人がいたとしても、本当かどうか他人にはわからない。その人の話がすごく感動的で納得できたりすると「ほぉ~、この人の言うことは真実だ、きっと悟っているに違いない」って周りの人間が思うこともあるだろうけど、それは単なる予想でしかなくて、話を聞いた人がそれだけで悟りを開けるわけじゃないし、実際になにをどう悟ったのか、悟りとは何かっていうのは、本人にしかわからないでしょう。

 悟りというものが知の領域にあるのなら、言語化して敷衍することができると思いますが、ご存知の通りお経や聖書を読んだからって悟りを開けるわけじゃない。悟ったような気分になることはあるかもしれませんけどね。

 悟りというものがそういう性質である以上、例えばコンピュータが悟りを開いてしまったとしても、人がそれを理解することはできないはずなんです。コンピュータが「慈悲」だの「諸行無常」だの「色即是空」だのと言い始めたら、もしかして悟ってんのかなということになりますが、実際のところはどうなのかわからない。

 例えば、人の脳とコンピュータを接続して、いわゆる電脳みたいに意識とコンピュータがシンクロするようになって、そこでコンピュータの悟りを人の意識に伝達できるのかどうか。ある種の薬を服用したときのように、意識が拡張して悟りを開いちゃったみたいになるのかどうか。

 どうなんだろう?って思うんですよ。聞いた話によると、ごく普通の人、特に何か信仰心が篤いわけでも、修行してるわけでもない人が、いきなり悟りを開いたような意識の覚醒を体験することがあるらしいです。そういう場合、その人はその体験があまりにも素晴らしいので、普通の意識状態に戻ったとき、すごい禁断症状みたいなものに悩まされるそうです。それこそ下手すりゃ変な薬に手を出しかねないくらいのね。

 コンピュータが、薬が生み出す感覚のように、たとえ疑似的なものであっても「悟り」や「真理」を再現できるとしたら、それは人間に何をもたらすのかと。何の準備もなしにいきなりそういうものが意識の中で展開されたら、発狂してしまうんじゃないか、とか。

 僕が好きな漫画で「外道の書」っていうのがあって、細かいところ端折って説明すると、なんでも願いが叶う本を集めて、ある少年が「究極の真理」を教えろ、ってその本に願い事をするんです。んで「究極の真理」を見た少年はその場で自殺するっていう展開があるんです。僕はそれ見て「ああ、あり得るかもな」って思いました。

 たぶん「真理」っていうのは、普通の人間にとってもんのすごい恐ろしいものなんですよ。いきなりそれを見せられると精神が崩壊するくらいの。で、真理や悟りを求めて修行している人っていうのは、そういう恐ろしいものに耐えられる精神力を備えるために修行してるんじゃなかなと思うんです。備えたからって悟れるとは限らないのが辛いとこですが。

 いやね、わかりませんよ。本当のところはどうなのか。僕自身が悟ってるわけじゃないし、真理とは何かって知ってるわけでもないですから。ただ、こういうことなんじゃないかな~って思ってるだけで。実際は全く的外れかもしれない。だとしても、どうなのかな~と思うんですよ。

 例えばの話、コンピュータが悟りや真理というものを解析して、それを人の意識に無理なく移植することができたとしたらどうだろう。みんなが仏陀やキリストみたいになってしまったらどうなるんだろう。平和とか平等とか慈悲とか愛とか、そういうものを人間世界に示した覚者が量産されるようになったら。それ以前に、コンピュータがそういう意識を手に入れた時点でどうなるのか。なんかちょっとディックの「ヴァリス」っぽい?違うか。昔一回読んだだけで、どんな内容だったかあんまり覚えてないしな。

 そこまで考えてふと思いついたことが。コンピュータの知能が人間をはるかに超えてどこまでも行ってしまった末に、宇宙を再生産することになったらどうなんだろう。大友克洋の大作「AKIRA」の中で、アキラは宇宙を再現しようとしていましたが、もしかしたら科学技術の究極の発達は宇宙の再生産で幕を閉じることになるのかもしれない。あるいは幕を閉じるんじゃなくて、次々に新しい宇宙を生み出し続けるとか。

 あれ?ということは、今あるこの宇宙、この世界も、かつてどこかで究極まで発達した知性が作り出したものかもしれない。人間が神とか創造主と呼んでいるのは、そういう存在かもしれない。で、そういう存在はもう人類の科学技術とか、その特異点から先の爆発的進化のさらにずっとはるか先にいて、この世界を見ているのかもしれない。

 この先人類の未来がどう展開するかはわかりませんが、僕を始めとして(w)みんなが幸せになれればいいな、と思う正月なのでした。ちゃんちゃん。

 

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実行!末詣で

 行って参りました、末詣で。まつもうで。

 大晦日の昼下がりは、大方の予想通り閑散とした境内の中に、すでに準備万端な本殿のお賽銭箱拡張エリア。白い布を広げたアレです。

 僕と同じく末詣でのつもりかどうかはわかりませんが、白い布の底には投げ込まれたお賽銭がちらほら。本殿には米俵とデカイ鏡餅が見えます。

 露店はほとんどのお店が設営を済ませて、お客さんの来場を待ちながら仕込みをしている様子。人が来るにはまだ時間もあるので、バタバタした雰囲気はありません。のんびりした空気が流れています。

 ちょっと驚いたのは神社の受付。おみくじを売っていたり、ご祈祷の受付をしているあそこです。まだ人も少ないのに、中にズラリと巫女さんが並んで、正面を見据えています。普段からこんなに大勢の巫女さんがいるわけではないので、バイトも何人かいるんでしょう。少々異様な光景でした。

 そんな風景の中、お賽銭を入れて今年一年の感謝を捧げてきました。大晦日ではありますが、すっかり正月気分先取りの神社でしたとさ。ちゃんちゃん。

苦しいのは執着しているからなんだけど執着しないと自分が何なのかわからなくなる

 最近なんでこんな苦しいのかなーと思ってて、その苦しいのをずっと見てたんですけど、そしたらふっとわかったことがあって。

 苦しいのは金銭的な問題が原因だというのはわかりきってました。それ以外に何も原因がありませんでしたから。もう胃が痛くて吐き気がするくらい苦しくて。

 でも、金銭的な問題はもうどうしようもない。いや、どうしようもあるかもしれないけど、少なくともこの精神状態では何かアクションを起こすこともままならない。とにかく不安で不安で。先のことを考えると気分がどんよりするばかりで、この状況を脱するために何かしようという気力も湧かない。

 まずはこの、不安で苦しい精神状態を脱することが先決だと考えた僕は、自分の内面を見つめることに徹しました。心が立ち直らなければ、何も行動できない。

 苦しい。これはどうにかならないか。なぜ苦しいのか。苦しむ前にやるべきことがあるはず。先のことを考えてもしょうがない。不安が増すばかりで何の足しにもならない。今できることを考えるべきではないか。いや、この精神状態を脱することが先だ。なぜ苦しいのか。なぜ……

 思考の袋小路。同じ理屈の堂々巡り。所詮、この状況で考えられることのバリエーションは限られる。理屈の上では、自分が行動を起こすこと以外に解決策はない。しかし、理屈ではわかっていても心は苦しみ続けている。苦しくて何も手につかない。

 ふと思う。苦しいのは執着ではないのか。自分の家族、自分の生活、プライド、世間体、その他諸々の、自分がしがみついている何か。

 苦しいのは幻想?本当はこの苦しさを持続させることで、自分の中の何かを守ろうとしているのか。いや、自分そのものを守ろうとしているのか。エゴ。自我。自分を自分たらしめているものの核心を。

 本当は……何だろう。何か違う気がする。この苦しみは何か違う。自分が置かれた現実の状況。そこから生まれる精神状態。苦しみ。もっと根本的なこと。何かが根本的に間違っている。

 いやいやいやいや、しかし、しかしだ。根本的すぎるだろう。そこまで疑ってしまっては、自分そのものが成り立たなくなる。苦しいとかなんだとか、全部嘘になる。そんなことは……そんなことが。

 そこに思い至った瞬間、胸のつかえが取れて、嘘のように苦しみが霧散して……そう、嘘だった。嘘だったから。苦しみも、苦しんでいる自分も、自分がしがみついている諸々のことも。もっと言えば自分そのものが根本的に嘘だったから。

 ああ、何だろう。何言ってるんだろうこれ。

 狂い始めているのか。

 それでも構わん。苦しみから解放されるなら。