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【今日の戯れ言】精神障害・疾患と無罪【独り言】

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おお 神様 神様

たすけて パパヤー

 

 今日もまた、「自由意志」が否定されたらどうなるかを考えてみました。

gokumatrix.hateblo.jp

 精神障害や疾患を抱えている人が犯罪を起こすと、情状酌量になったり、無罪になったりすることがあります。明らかにその障害や疾患が原因で「心神耗弱」あるいは「心神喪失」の場合には、減刑したり無罪になったりするそうです。

 心神喪失または心神耗弱の場合、「自分」の判断力や思考力、言い換えれば「自己制御能力」が全く失われているか、著しく低下した状態と言うことができます。その場合は責任能力がない、または低いとみなされます。

 となると、自分でわざとやったわけじゃないから、仕方ない面もあるね、ということで、無罪か減刑ということになるのでしょう。

 さてここでポイントとなるのは、有罪になるかどうかは、犯罪を起こした時の精神状態が「自分」の制御下にあったかどうかによる、ということではないかと思います。自分で思考し、判断し、意識的に犯罪を犯したのであれば、それは責任能力があるということになります。

 しかし、いわゆる「健常者」の思考や判断、意識、自我といったものが、全くの自然現象、偶発的なもの、「自己」に関わらないものだとしたら、どうなるでしょうか。そもそも「自分」というものが現実には存在せず、人の精神状態がただの「成り行きの結果」としてあるだけで、そこに「自己」は介在していないとしたら。

 ある人が、憎しみの末に、あるいは利己的な目的のために、誰かを殺したとします。犯人の思考、判断、意識が、全て彼の「自己」によって独自に生み出されたものならば、彼には責任があると言えるかもしれません。しかし実際には、彼の思考、判断、意識、価値観、人生観、性格などは、彼を取り巻く人間社会を含め、全て自然現象の結果としてあるだけです。

 この世界に存在するものがすべて宇宙から生まれたのなら、すべての現象の因は宇宙にあります。私やあなたの心が、この宇宙から、自然から全く無関係に、この世の原初から私やあなたによって独自に構築されたものならば、宇宙を因とする現象から独立して「責任」を持つことができるでしょう。

 しかし、私たちの存在、意識が、この宇宙から生まれ、この自然界の中で機能する限り、それは独立した「自己」とは言えず、そうなれば「責任」という概念も、「罪」という概念すら無意味なものになります。たまたま宇宙空間から飛んできた隕石に当たって怪我をしたら、その隕石を罪に問えますか。私たちの悪意も利己心も、その隕石と別物ではありません。同じ宇宙から生まれたのですから。

 これは極論でしょうか。まぁ極論でしょうね。

 ただ、人が「自分」というものを、宇宙や地球、自然とは全く別個に独立して機能していると考えるのは何故なのか、ちょっと不思議ではあります。それは言い換えれば、自分自身を「神」だと考えているのと同じことではないでしょうか。自分には責任能力があると考えている人はみんな、心の底で「私は神だ」と思っているに等しいのです。面白いですね。

 ということで、本日もお粗末さまでした。

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【今日の戯れ言】自我とか意識の「自由意志」を否定すると社会はどうなるか【独り言】

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短いこの人生で

いちばん大事なもの

それは自由、自由、自由

 

 昨日の記事で書いたことをもう少し拡げて考えると、社会通念というものが軒並み崩れ去るんじゃないか、ということを考えてみたいと思います。

gokumatrix.hateblo.jp

 私たちの社会は、自我や意識に自由意志があることを前提として組み立てられています。自分の意志、自分の考え、自分の所有物、その他自分の〇〇。

 わかりやすいところで言うと、「責任」という概念があります。これは自分の意志で行ったことの結果は自分に帰属する、みたいなことです。これは自分というものの自由意志、権利などを前提にした概念です。

 そこで、自我や意識の自由意志や権利、いわば「制御権」とでも言うようなものが否定されたらどうなるでしょうか。つまり、人の意識は自分の意志で動いているのではなく、自動的に、あるいは自然の成り行きで動いているだけで、「自分」というものはそこに後付けされた、架空の制御者に過ぎないとしたら。

 意識が勝手にやったことを、後から「これは私が考えた」「私が判断した」と、あたかも自分の自由意志、自分の権限によって考えたり行動したのだと錯覚しているだけだとしたら。

 その錯覚を取り除き、すべての意識の働きは、自動的な、自然の成り行きの結果でしかなく、そこに自分の意志など介在していない、ということになったら、責任という概念は根底から崩れ去ります。

 例えば、通常なら人が何らかの犯罪や、犯罪までいかなくても、ちょっと常識を外れたこと、道徳的にまずいことをして、誰かに迷惑をかけた場合、それはその人自身の意志によって行われたことなので、その人に責任があることになり、処罰されたり、人から嫌われたりします。

 しかし、自我や意志を持たないものが誰かに迷惑をかけた場合はどうでしょう。動物とか、偶発的な事故とか、自然災害とか、そういうものによって被害を受けた場合です。動物であれば、檻に閉じ込めたり、殺処分するということもありますが、それは責任とか罪といったことを前提にはしていません。無生物であればなおさらです。

 そのように、もしも人の行動が、自身の意志によるものではなく、自然の成り行き、災害と同じようなものだとしたら、責任を問うということは考えられなくなります。堤防を造ったりするのと同じように、何らかの対策を取ることはあっても、責任がどうこうという話にはならないでしょう。

 誰かの行動で誰かが被害を被る、というのはわかりやすいパターンですが、ことはそれだけにとどまりません。人の意志を否定するということは、責任、義務、所有、さらには善悪の概念までもが崩れ去るということです。人間社会を構成するほとんどのシステムが、根本から成り立たなくなります。

 私たちが無条件に受け入れている「自由意志」という概念を否定したとき、世界がどのように見えるか、想像してみると面白いかもしれません。

 ということで、本日もお粗末さまでした。

自由

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【今日の戯れ言】自我は自己の正体を見破ることができるか【独り言】

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つまるところ全てはバレることで

ここにはいられない

 

 はてなの人気ブログ「シロクマの屑籠」さんに興味深い記事が上がりました。

「超自我」は滅びんよ、何度でも甦るさ - シロクマの屑籠

興味深い。

2018/10/17 21:38

  「心」や「精神」「意識」のようなものは、若いころからの関心の的でした。折に触れ、自分自身の心のありよう、精神や意識をどのように捉えるか、その正体は何なのか、心は、意識はどこから生まれてくるのか、ということについて観察と瞑想、思索を重ねてきました。

 しかし、哲学や心理学についての書物は読んだことがなく、他人がどのように心を解釈しているか、ということにはあまり関心がありませんでした。そもそも、難解な理論を理解できるほどの頭は持ち合わせていないというのもあります。お触り程度に関連書籍をあたってみたことはありますが、本格的に学ぼうという気にはなりませんでした。

 他人が構築した難解な理論を学ぶのは面倒くさい、というのもありますが、他人が構築したもので自分の心を解釈することに、どことなく抵抗があったのです。自分の心は自分にしか見えないのだから、自分で探究するしかないのではないか、と思ったのです。大勢の人が認め、崇めるような権威には近づきたくない、という気持ちもあります。

 だから、精神分析というものも、眉に唾を付けて見ていました。はたして、精神が自己を分析することはできるだろうか。自己分析の結果は、まさに自己の枠組みの中で構築された平面的・断片的なものでしかなく、精神の包括的な理解に結びつかないのではないか。分析者である精神は、精神自身の枠組みを超えて自己を理解することはできないはずだと考えたのです。

 つまり、精神の外に出なければ全体の形を見通せないはずだけれど、精神が自身の外に出ることは叶わない。常に内側からしか自身を見られない精神に、自己の全体像を把握することは不可能ではないか、ということです。

 イド、自我、超自我、と精神の層を分けてみたところで、つまるところそれらも精神が作り出した概念であり、言葉遊びの域を出ず、精神そのものの包括的な理解とは無関係だろうと思います。

 ここ数年、考えるようになったのは、自我が、自分自身を幻であると認めたらどうなるか、ということです。

karapaia.com

 日々の生活において、人は自分の意識、自我によって物事を決定し、行動していると思っています。しかしそれが全て偽りだったとしたら。「自分」というものとは無関係に、無意識が勝手に決定し、それを自分の思考や判断の結果だと錯覚しているだけだとしたら。

 もしかしたら、人はその考え方に恐怖を覚えるかもしれません。しかし、その先にはおそらく解放があります。自我からの解放。その衝撃が、精神に何をもたらすのかはわかりません。もしかしたら、心が救われるような感覚を味わうかもしれない。万能感が生まれるかもしれない。

 だとしても、それが精神の領域にあるのなら、それもまた錯覚ということになるでしょう。自我が感覚を捉え、これは解放だ、救済だ、悟りだと言い出したら、それはもう錯覚です。

 心とは、精神とは、意識とは一体何でしょうか。その問いが解かれるとき、そこには心も、精神も、意識も存在しない状態があるのかもしれません。知らんけど。

 ということで、本日もお粗末さまでした。

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