心は空気で出来ている

空気を読むな、呼吸しろ。

シュレーディンガーは語らない ― 【第5回】短編小説の集い 投稿したかったけど間に合わなかった作品


【第5回】短編小説の集いのお知らせと募集要項 - 短編小説の集い「のべらっくす」

 今回締め切りまでの時間が短くて、参加するかどうか迷いましたが、意外とすらすら出てきたので、エイヤッで参加しようと思ったら間に合いませんでした。やっぱ2時間じゃ書ききれませんでしたわ。けどせっかくなので出しちゃいます。

 

シュレーディンガーは語らない」

 かつて、猫は地球を支配していたが、ある時、人に言語を譲り渡し、地球の支配者の座を降りたという。

 

 サイキは、ある研究機関に勤めている研究者である。専門はバイオテクノロジーで、遺伝子だの、酵素だの、再生医療だのといった分野にまたがる研究をしている。去年までは万能細胞の研究に携わっていたが、別の研究員の不正が発覚したことでその研究はとん挫してしまった。サイキはその研究員とは別の角度から研究を進めていたのだが、とばっちりをくらった形で研究を中止せざるを得なくなった。

 上司から研究の中止を告げられた日、彼が酔って家に帰ると、玄関に一匹の猫がいた。体の毛は白いのだが、尻尾の根元から半分までが茶色、そこから先が黒という、変わった柄の三毛猫だった。ドアの真ん前で置物のように伏せていたその猫は、サイキの姿をちらりと見ると、おもむろに立ち上がり、前足を突っ張ってゆっくりと尻を突き出し、あくびをしながら伸びをした。それから姿勢を戻して座ると、尻尾をぴくぴくさせながら、早くドアを開けろとでも言うように一声鳴いた。

 「なんだおい……あつかましいやつだな」

 猫は、サイキの帰りが遅かったことに対して不満を訴えるような目つきで、じっと彼を見た。酔っていたせいか、サイキはその猫を追い払わず、家に入れてサバ缶をふるまった。自分の置かれた状況に少しでも慰めが欲しかったのかもしれない。シュレーディンガーと名付けたその猫とサイキとの半同棲生活はこうして始まった。

 万能細胞の研究中止を余儀なくされたサイキは、食品加工用の酵素に研究の対象を移していた。健康食品やダイエットなど、疑似科学分野で格好のネタとしてもてはやされている酵素だが、サイキの研究はそうしたものとは無縁の、酒類の醸造に関わるものである。しかし、万能細胞の夢をあきらめきれないサイキは、自宅のパソコンを利用してタンパク質の合成シミュレーションを繰り返していた。研究所のワークステーションほどの精度は期待できないが、大雑把に可能性を探る程度のことはできる。

 ある雨の休日、自宅の部屋でシミュレーションソフトを走らせながら、台所へコーヒーを淹れて戻ってくると、キーボードの上でシュレーディンガーが座っていた。

 「おいおいおい……勘弁してくれよ。せっかくいい感じで進んでたのに」

 シュレーディンガーを抱いてキーボードから下ろし、ため息をつきながらシミュレーションのやり直しをしようと画面を見た。

 「おいおいおい……ちょっと待て……これはなんだ。どういうことだ」

 口元に運んだマグカップが、口に触れる手前で止まった。画面上でせわしなく値を変える数値が、見たこともない形のグラフを描いている。

 「あり得ない……こんな反応が……まさか」

 足元ではシュレーディンガーがしきりに前足をなめては顔を拭っている。まるでひと仕事終えたような顔だ。

 「だけど……そうか、マクガフィウム239の濃度を上げたことで溶液が安定して……あり得るぞ。しかし普通に考えてたんじゃこんなやり方は一生かかっても思いつかない。偶然にしてもすごいお手柄だぞシュレーディンガー

 サイキの話にはまるで興味がないように、シュレーディンガーはソファに寝そべっていた。

 翌日、サイキは自宅で偶然発見した数値を元に、研究所のワークステーションでさらに高精度なシミュレーションを行ってみた。結果はサイキの期待通りで、一気に新たな万能細胞への道筋が開かれたようなものだった。しかし、シミュレーションの結果を精査するためには、これを上司に報告しなければならない。中止したはずの研究を、研究所の設備を使って勝手に進めていたことが追及されたら……サイキの中で興奮と不安とがせめぎ合いを始めた。

 研究は個人的に行っていたものだし、データを改ざんしたわけでもない。しかしそのデータを得るために、研究所の設備を勝手に使ったことを追及されたらどうなるだろう。いや、これだけ革新的な結果が出たことに比べたら、そんな小さなことは問題にならないはずだ。サイキは様々な思いに振り回されながら、眠れない日々を過ごした。

 シュレーディンガーは、そんなサイキの葛藤をよそに、自由気ままにサイキの家を出入りしていた。ソファでのんびりしていたかと思うと、ふいに外へ出かけて行ったり、何日も姿を見せないかと思えば、休日もパソコンにかじりつくサイキを日がな一日眺めていたりした。そして時折、サバ缶を要求した。

 研究所で得た詳細なデータを元に、サイキは自宅のパソコンでシミュレーションを繰り返し、自らの研究成果を検証した。精度は粗いものの、サイキの自信を深めるのに十分なデータが積み重ねられていった。その自信が、サイキの決意を促した。

 「よし、これだけの成果を見せれば、上司も納得するはずだ」

 よく晴れた休日の朝、サイキは万能細胞に関する研究の成果を上司に報告することを決意した。すがすがしい気分と、わずかな不安、そしてこの成果が自分にもたらす名声への期待を胸に、いつものようにコーヒーを淹れて自室のデスクに向かった。キーボードの上には、あの日と同じようにシュレーディンガーが鎮座していた。

 「おまえも俺のことを応援してくれるのか。偶然とはいえ、お前のおかげでここまでの成果が出せたんだ。何かお礼でもしないとな。サバ缶でもいいか」

 そんなことを言いながら、シュレーディンガーをキーボードから下ろし、パソコンの画面に向かったサイキの目は、シミュレーションソフトが吐き出す数値に釘付けになった。

 「どうなってる……なんだこれは。そんなまさか……」

 そこに映し出されているのは、サイキのこれまでの検証結果をすべて覆す、絶望的なデータの羅列だった。

 「ばかな……これは……マクガフィウムが濃縮されることでサナリオナーゼのpHが反転するのか……なんてことだ。こんな盲点があったとは……」

 サイキは全てのデータを消去し、苦いコーヒーをすすった。それきり、万能細胞に関する研究からは一切手を引き、酵素の研究に没頭するようになった。やがてその分野で一目置かれる研究者となり、彼の研究をもとに開発された酵素が大手酒造メーカーに採用され、サイキは一躍花形研究者となった。一方シュレーディンガーは、サイキが万能細胞の研究を捨てた日から、ぱったりと姿を見せなくなっていた。

 「シュレーディンガー、どこいったのかな。そもそもあいつは一体何だったんだ」

 休日のソファでくつろぎながら、サイキはシュレーディンガーのことを思い出していた。デスクのパソコンの横には、サバ缶がひとつ、置いてあった。

 

 ― 了 ―

 

※あとがき

 ちょっとしたリアリティを出そうとして、予備知識もないのに現実にあるものを小道具に使ったら、ものすごい嘘くさくなるっていうことが今回よくわかりました。リアリティは早めの段階で放り投げました。