心は空気で出来ている

空気を読むな、呼吸しろ。

西遊奇 -3-

第三章

 

 唐の帝都、長安の都。その北に位置する宮殿の一角に、謁見の広間がある。朱に塗られた円柱が広間を取り囲むように立ち並び、それぞれの柱の前には槍を持った衛兵が立っている。正面の階段の最上段に玉座があり、太宗皇帝が座っている。その右隣の一段低いところには恵岸が立ち、さらにその一段下からは、10人ほどの重臣たちが階段を挟んで左右に並んでいる。階段の最下段から数歩先の地面に、玄奘が玉座のほうを向いて立っていた。

 広間の上には屋根がなく、真っ青に晴れ上がった空が四角く切り取られている。暗く感じられるほどのその青さは、この地方に乾季が訪れたことを告げていた。日差しはそれほど強くはなく、風も涼しいが、日向に立っていると頭の天辺がじりじりとしてくる程度の暑さはある。

その日差しに見事な身体をさらしながら、玄奘は玉座に座る太宗皇帝をじっと見つめていた。

 「玄奘よ、そう睨むな。お前を選んだのはわしではなく、この恵岸だぞ」

 一国を統べる皇帝を前にして、いささかも畏怖を感じていない様子の玄奘を見て、太宗皇帝はなぜかうれしそうである。

 「いや、別に睨んじゃいないよ……ただ、あんたがおれを呼ぶときは、だいたい何か裏があることが多いんだよな。何を考えてるのかと思ってさ」

 皇帝を“あんた”と呼ぶ玄奘に、重臣たちがざわつく。

 「きさま、皇帝陛下に向かってそのような口を……!」

 重臣の一人が、玄奘の態度を見かねて叱りつけようとした。

 「よい、この男に皇帝だの平民だのと、身分の区別など通じぬわ」

 「し、しかし……」

 「わしがよいと言っている」

 太宗皇帝はずしりと重い声で、力強く言い切った。

 「ははっ!」

 玄奘を叱ろうとした重臣は姿勢を正し、頭を下げる。他の重臣たちも口をつぐんだ。

 「こいつがおれに用があるってときは、なおさら裏があるに決まってるんだけどな」

 今度は太宗皇帝の一番の腹心を“こいつ”呼ばわりである。

 こいつと呼ばれた恵岸が口を開いた。

 「玄奘、お前も知っていると思うが、近頃この国では妖怪変化の類がいろいろと悪さをすることが急激に増えている。私も独自に調査を進めてきたが、その原因はまだわかっていない。しかし原因をつきとめるまでこの事態を放っておくわけにもいかん。そこで、天竺まで降魔調伏の効力を持つ、新しい経文を取りに行って欲しいのだ」

 「なぜおれに?確かに天竺までは厳しい道のりかもしれんが、おれでなくても行けるやつはいるだろう。それに、おれはただの平民だぜ?国を代表して天竺へ行くからには、それなりの身分てやつが必要なんじゃないのか?」

 「おまえが平民と言えるかどうかは別として、天竺へ行ってもらうため、おまえには三蔵の位を用意してある」

 再び、重臣たちがざわつく。三蔵といえば、国内で最もレベルの高い僧院を卒業し、さらに皇帝直属の輝学院という教育機関において、様々な分野の学問を修めた者の中から選ばれる、エリート中のエリートにのみ与えられる官位である。さきほど玄奘を叱ろうとしたのとは別の重臣が、おずおずと口を開いた。

 「え、恵岸どの。この男が何者であれ、とても三蔵の位に値する人物とは思えませぬ。いくら天竺への取経を依頼するためとはいえ、そこまですることは……」

 「いや、彼はかつて私と同じ僧院で共に学んだ者だ。ああ見えて、少なくとも私よりは優れた頭脳を持っている。三蔵の位に何ら見劣りすることのない人物だ」

 「まさか……」

 他の重臣たちも、とても信じられないといった様子で、玄奘をまじまじと見つめた。

 玄奘は渋い顔で答える。

 「ふぅん……三蔵とはまた、思い切ったことだな。だが、その肩書きつられておれがほいほいと天竺くんだりまで行くとは思っちゃいないだろ?切り札はなんだ?」

 恵岸が、その問いを待っていたというように、笑みを浮かべた。

 「さすが、察しがいいな。切り札は“緊箍児”だ」

 「なに?」

 玄奘の目つきが、一瞬真剣になった。

 「本気か?」

 「ああ。本気だ。天竺まで辿り着き、経文を持ち帰るのは、いくらお前でも楽な仕事ではない。時間もかかるだろう。悟空を連れて行けばずっと楽に、早く行けるはずだ。それに、悟空を供にするのは、お前以外の者には無理だと思ってな」

 玄奘はしばらく恵岸を見つめていたが、やがて太宗皇帝のほうを向いて言った。

 「もちろん、皇帝も了承済みってことだよな?」

 太宗皇帝は、恵岸と玄奘のやりとりを楽しんでいるようである。

 「わしも恵岸に聞いたときは驚いたが、お前を釣るためには、これくらい必要だと抜かしおってな。それに、お前ならできるだろうと、わしも思う」

 「はあぁっ……!」

 それまで、玄奘たちの話を、首をかしげながら聞いていた重臣たちの中から、驚きの声が上がった。声を上げたのは、太宗皇帝よりもずっと年老いた、重臣の中でも最古参の老人だった。

 「太宗さま……悟空というのは、まさか両界山の……?」

 「そうだ劉興。おまえなら聞いたことがあるかもしれんな」

 劉興と呼ばれた老臣は、老いのためか、それとも恐怖に慄いてか、声を震わせながら太宗皇帝に聞いた。

 「まさか……あの伝説は本当だったのですか?」

 「伝説ではない。この国の皇帝が代々受け継いできた伝承だ」

 「わ、私が聞いたその、伝承が事実だとするなら、両界山を……あの怪物の封印を解くことは、国の滅亡を招くようなもの。どうか、どうかお考え直しを……」

 「そううろたえるな劉興。あの伝承がすべて事実かどうかは、わしにもわからん。なにしろこの国がまだ形を成す前の、500年も昔から伝わる話だからな。途中でいろいろと尾ひれがついて、大げさな“伝説”となった可能性も否定はできん」

 太宗皇帝は、老いた忠臣をいたわり、優しい口調で諭すように言葉を継いだ。

 「それに、ただ解放して野放しにするわけではない。この男に緊箍児を託せば、うまく悟空を御してくれるであろうと考えてのことだ」

 「し、しかし……」

 「察してください、劉興どの。この国がおかれている状況は、それほど深刻だということなのです」

 まだ納得しかねる様子の劉興に、恵岸が口を添えた。

 「お二人がそこまで言われるのなら……」

いまだ不安げな面持ちで、老臣は引き下がった。

 「なるほどね……面白そうだな。この話、乗ったぜ。裏があってもなくてもな」

含みのある玄奘の言葉に、恵岸と太宗皇帝がわずかに視線を交わす。

 「頼む、玄奘。では、出発の前に緊箍児と、緊箍経を渡そう」

 「いや、緊箍経はいい。僧院で読んだことがあるから、頭に入ってる」

 「そんなものまで……まぁ、おまえなら読んでいてもおかしくはないか」

 恵岸があきれたように言う。

 「まさか使うときが来るとは思ってなかったが……ま、使うやつがいると思ってないから、僧院の書庫なんかに写経が置いてあるんだろうぜ。ところで、このおっさんはもしかしておれと一緒に?」

 玄奘は前を向いたまま、握りこぶしから突き出した親指で自分の右後ろを指して聞く。 「うむ、八戒という者だ。天竺までの道案内と、向こうへ着いてから経文を受け取る手続きなどは、すべてこの男に任せてある」

 振り向いて、玄奘が八戒をちらりと見る。

 「まったく、手回しが良すぎるんだよな……そういうことなら、よろしく頼むぜ」

 「……よろしく」

 表情を変えずに、八戒が応える。身長は玄奘より少し低いくらいで、玄奘ほどではないが筋肉質な体つきである。短く刈り込んだ頭には白髪が混じっているが、それほど年を取っているようには見えない。おそらく40前後といったところか。日に焼けた顔は精悍だが、静かな眼をした男である。

 「話はまとまったようだな。では、天竺への旅の安全と成功を祈って、今宵は祝杯といこうではないか。付き合えよ、玄奘

 太宗皇帝が嬉々として声を上げた。

 「ふん、ほんとに宴会好きなおやじだ……仮にも坊主のおれに酒を勧めるかよ」

 そう言いながら、まんざらでもない顔の玄奘であった。

 

 その夜、宮廷では壮行会が催され、玄奘は皇帝に付き合ってしこたま酒を飲んだ。皇帝が酔いつぶれたところで宴会はお開きとなり、玄奘は廷内の客室に通された。しこたま飲んだといっても、無類の酒豪である。ほろ酔い加減で寝床につき、天井を見ながら考えを廻らしていた。

 「玄奘どの」

 扉の向こうから低い声が聞こえた。

 「八戒です。入ってもよろしいか?」

 「はいよ」

 静かに扉を開け、八戒が入ってきた。彼も壮行会に参加してはいたが、酒には全く手をつけず、宴会場の隅のほうで食事をしていただけである。

 「おやすみのところ、申し訳ない」

 「いや、まだ寝てたわけじゃない……あんた、酒は飲まないんだな」

 玄奘は寝ていた身体を起こし、あぐらをかいて八戒のほうを向いた。

 「はい」

 「あんたの名前の“八戒”のうちに、飲酒を禁じる戒律ってのははなかったと思うが」 「いえ、私も僧の端くれですから」

 「まじめだねぇ……あぁ、適当に座ってくれよ。で、おれに何か言いたいことでも?」 「はい。恵岸様から言付かっていることがあります」

 円卓の側にある椅子に腰掛けながら、八戒が話し始めた。

 「実は、今回の天竺行きのことなのですが……」

 「ガンダーラへ行くんだろ?」

 一瞬、目を見開き、八戒が玄奘の顔を見つめた。驚きの表情が微笑に変わる。

 「ふ……さすが、恵岸様が見込まれたお方です」

 「あんたの顔を見たとき、だいたいの察しはついたよ。あの貿易商の家で降魔の槍を探ってたあんたがここにいるということは、天竺の経文ってのは単なる建前だろうってな」 八戒の表情が真剣なものになる。

 「驚きました……そこまで見抜かれているとは。なぜあそこにいたのが私だと?」

 「あんたに縛をかけたとき、同時に目印をつけておいたのさ。おれにしかわからないようにな」

 「あの時の髪の毛はそういう意味でしたか」

 「ああ。それに、おれの縛を抜けられるほどの妖怪が……こう言っちゃ貿易商のおやじには失礼だが、あの程度の男に取り憑くような真似はしないだろうと思ってね。あの件には、はじめからひっかかりがあったんだ」

 「なるほど、うわさに違わぬ明晰なお方だ」

 八戒と言葉を交わしながら、玄奘は無遠慮に八戒の体を頭から足先までじろじろと見ている。

 「ところで、あんたのその体、恵岸が作ったのか?あそこで会ったときはむき出しの妖体だったよな」

 「お察しの通り、この体は恵岸さまに錬成していただきました」

 「練丹術か……器用な奴だ。ここまで完璧に錬成された身体は見たことねぇな。目印がなきゃ、おれでも見破れないくらいだ」

 「本当は、あなたにも見破られないつもりでいたのですが……甘かったようです」

 「そこまで完璧に作りこまれた身体じゃ、元の妖体に戻るのは難しいんじゃないか?」 「それも覚悟の上です」

 「なぜそこまで恵岸に尽くす?」

 「あの方は私の……いえ、あまり口が過ぎると叱られますので」

 「ふ、まあそういうことならそれ以上は聞かんがね。とにかくガンダーラへ行くということは承知した。悟空の件もそうだが、降魔の槍にも興味があるんでな」

 八戒は椅子から立ち上がると、軽く一礼した。

 「では、玄奘どのにご承知いただいたこと、恵岸さまに報告しておきます」

 「あんたの正体とその身体のことは、ばれなかったことにしといていいぜ。あいつのプライドのためにな」

 「はは……そうしておきましょうか。では、失礼」

 入ってきた時と同様、八戒は静かに部屋を出て行った。

 玄奘は再び寝床に仰向けになると、目を瞑った。静かになった部屋の外では、賑やかな虫の声が響いていた。

 

 宴の翌朝、玄奘たちは宮殿の南側に位置する城門の前にいた。玄奘と八戒、それに荷物を運ぶためのロバが一頭。城門の前の広場には、恵岸と太宗皇帝の家臣たち、そして天竺への取経に向かう三蔵法師の一行を見送ろうと、噂を聞きつけてやってきた見物人たちでにぎわっていた。

 玄奘は、恵岸が用意した旅装束を着て、あたりを見回していた。

 「恵岸、太宗のおっさんは二日酔いか?」

 「……そうだ。おまえも少し手加減することを覚えたらどうだ」

 「フン、自分の年も考えずに、おれと飲み比べなんかするからだよ」

 「それはそうと、肝心のものを渡しておかねばな」

 そう言うと、恵岸は手に持っていた古い木箱から、緊箍児を取り出した。

 玄奘は、受け取ったそれをじっくりと観察した。

 「これが、緊箍児か……」

 一見、単なる金属製の細い輪で、金色に輝いている。しかし見る角度によって微妙に色が変化し、表面が透けて内部に細かい紋様のようなものが見えることがある。金属のようであり、べっ甲のような透明感もある。玄奘がこれまでに見た、どんなものとも異なる素材でできているようだ。直径は、成人の頭がちょうど収まる程度の大きさである。

 「こんな妙な代物があったんじゃ、伝承を信じないわけにはいかんだろうなぁ」

 「うむ。これを悟空の頭に嵌めれば、緊箍経を使って暴走を止められるそうだ。馬の手綱のようなものだな」

 「なるほどね。問題は、悟空がすんなりとこれを頭に嵌めさせてくれるかどうかだ」

 「おまえならなんとかするだろうと思っている」

 「ずいぶんと当てにされたもんだな」

 「鬼坊主のあだ名は伊達じゃないだろう?」

 「ごく一部の人間が勝手につけたあだ名だろ。俺が自分で名乗ってるわけじゃない」

 そう言いながら、玄奘はいかにも楽しそうである。子供が、新しいおもちゃを早く試してみたくて、ワクワクしているような表情だ。

 「まあいい、それにしてもえらく人が集まったな」

 「おまえは国家を代表して天竺へ向かうのだ。妖怪に悩まされている人々の期待も大きい。そのことを忘れるなよ」

 「そんな建前の話、とうに忘れてたよ。それじゃ、行ってくる」

 「ああ。生きて帰れよ」

 「この先の展開によっちゃ、帰ったらおまえをぶん殴るかもしれないぜ?」

 「覚悟しておこう」

 「真面目な顔で答えるなよ。じゃあな」

 玄奘は、天竺――もとい、ガンダーラへの旅の第一歩を踏み出したのである。