心は空気で出来ている

空気を読むな、呼吸しろ。

問題の発生源

 今までにも何度か同じようなことを書いている気がするが、また書こう。言葉にすれば同じでも、ものごとは常に新たに起きているから。

 心の問題、悩みが起きるとき、人がそれを問題だと認識した時点でどうにかしたいと考える。普通はそう考える。解決したいと思う。

 あたかもその問題が、他者や出来事によって起こされたかのように、自分と別個のもの、自分の外にあるものとして扱おうとする。

 ところがどっこい、問題を作り出したのは自分であって外部の他者や出来事ではない。

 問題とは、他者や出来事が自分の想定と異なった時、それを想定内に収めなければならないという思考と共に自分が作り出すものだ。

 あの人があんなことを言った、こんなことをした、職場で、学校でこんなことが起きた。私はそれが許せない、気に入らない、それは起きるべきではない、間違っている、だから問題だと考える。

 自分が作り出す、といってもそれはなかなか認識できない。ある出来事を問題だと認識する思考過程が見えないからだ。自分が問題を意識するとき、それはすでに問題として成立してしまっている。まるで、自分とは関係ないところで勝手に「発生」したもののように感じる。

 それで、問題を解決するためにあれこれのことをしたり、悩んだり苦しんだりする。その他者が自分より弱ければ、思い通りに従わせて問題は終わる。その出来事が自分の裁量で変えられるものなら、それを変えて問題は終わる。

 相手が自分より強く、従わせられないとき、出来事が自分の裁量を超えているとき、問題は終わらず、自分は悩む。どうしたら解決できるだろうと考える。

 あるがままの事実に対して、あるべきという観念が衝突する、それが問題の原理だ。

 あるべきという観念は自分の中にある。しかしあまりに深く根付いているため、その観念を信じて疑わない。それが単なる観念であるという認識も、信じているという自覚もない。無意識のうちに信じきっている。自分にとってそれは観念ではなく現実だ。目の前の事実よりも優先されるべき、自分の根幹を成すもの。あるいは自分そのものと言ってもいい。

 ある出来事によって、自分を構成する観念が揺らぐ。自分自身が揺るがされる。だから自分はそれに抵抗する。それが問題と呼ばれるものの正体だ。

 問題が自分の外ではなく中にあるという認識は、ある意味コペルニクス的転回とも言える。動いているのは天ではなく地、事実ではなく自分、というわけだ。

 しかし地動説にたどり着くには、精密な観測が必要だ。観念に惑わされない、自分自身を対象とする観測が問題の本質を暴く。そのとき問題は根本から消えてなくなる。