We're children of the linght
The future we will guide
幻魔大戦と言えば、私のSF遍歴の中でも最初期に触れた作品で、読み始めたのは小学生の頃、と思っていたのですが、それは思い違いで、中学生の時でした。
1983年、アニメ映画「幻魔大戦」が公開され、テレビでそのコマーシャルを見ていた私は、ローズマリー・バトラーの歌と、大友克洋の絵と鮮やかな色彩に惹かれまくりました。しかし一人で映画を観に行く術も知らず、親に連れて行って欲しいとも頼めなかった私は、映画をあきらめて原作小説を読もうと思ったのでした。
しかし小説版の無印「幻魔大戦」(幻魔大戦には「真幻魔大戦」や「新幻魔大戦」があります)は、最初のほうこそ漫画やアニメと同じ超能力戦士が幻魔と戦うSFアクションものでしたが、途中から新興宗教団体のような話になっていき、平井和正の思索というか教義というか、そんな文章が延々と続く作品になってしまいました。
まだ中学生だった私には難解すぎて、一応は文庫シリーズの完結20巻まで読みましたが、ほとんど苦行のような読書でした。そのトラウマのためか、以降、他の幻魔大戦シリーズには一切手を出しませんでした。でも平井和正の他の作品はよく読みました。
さて石ノ森版の「幻魔大戦」を読んで一番印象に残ったシーンについてだけお話します。というのも、夏の24時間テレビ内で放送されたスペシャルドラマ「ヒーローを作った男 石ノ森章太郎物語」を見て感じたことと、今作の中で印象に残ったシーンがシンクロしたからです。
石ノ森章太郎は、トキワ荘時代に一番の理解者であり、支持者であった姉を病気で亡くしています。このことで彼は漫画を描くことができなくなり、世界中を経巡ったのち、再び筆を執り、膨大な作品を生み出しています。姉の死は、彼の作品に多大な影響を及ぼしたことは間違いないでしょう。
その片鱗として、「幻魔大戦」の主人公である東丈(あずまじょう)の姉・三千子は、丈にとって一番の理解者であり心の支えであったのですが、幻魔との戦いの中で命を失ってしまうというエピソードがあります。この時の東丈の慟哭が、ドラマで観た石ノ森自身の悲嘆と重なって、強烈に胸を打たれました。
若くして肉親を失うという苦痛を、自身の作品の中で主人公に追体験させるということは、石ノ森にとってどんな意味があったのだろうか。そんなことを考えました。
漫画版の「幻魔大戦」は、少年誌向けということもあって、小説版とはかなり色合いが異なります。しかし、子供向けであるがゆえになおさら、戦争の悲惨さ、人間の愚かさ、仲間との絆といったものが強調して描かれているのでしょう。
普遍性とは、今話題の教育勅語のような、硬直した概念やお題目の中にあるのではなく、人が心で感じ取る無形のものにこそ宿るのではないでしょうか。
ということで、本日もお粗末さまでした。