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【今日の戯れ言】教育勅語に関する騒ぎ、道徳というものの欺瞞【独り言】

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ただ我が道を 全力きたぜ

振り向かないで ひらすらきたぜ

 

 最近、文部科学省大臣になった人が、教育勅語には現代でも見習うべきものがあるという旨の発言をしたとかで、ちょっとした騒ぎになっているようです。普遍性があるとかなんとか。

 私自身は教育勅語をちゃんと読んだことがないので詳しくは知りませんが、それなりに内容は把握しているつもりです。古い家には明治天皇の絵姿と共に教育勅語が書かれた掛け軸などが、未だに床の間に掛けられたりしていますし、複製の新品がネットで売られたりしています。

 教育に関する行政をつかさどる文部科学省のトップが、教育勅語の復活を目論むような発言をしたことが、今回の騒ぎの根本にあるわけですが、そもそも教育勅語に限らず、国が道徳を語ること自体が危険だという認識を持つべきではないのかと思います。

 いや、国であろうが親であろうが、「道徳」というものを語ること自体、その名に反して人の道を誤らせる危険をはらんでいます。

 ざっくり言えば、健全な社会生活を営むために行動規範を持ち、善人として生きよというのが「道徳」の目指すところでしょう。そしてそれを教えるのが「道徳教育」です。

 しかるに、道徳という概念でもって人を縛ることが、人の健全性を歪めるのだとしたら、果たして道徳はその名に値するだろうかという疑問が当然のように湧いてきます。

 優しくあれ、親切であれ、人との関係を大切に。それはもちろんそうなんでしょうきっと。しかし、それは言われてできることなのでしょうか。もし誰かにそうしろと言われてするならば、それは本当の優しさ、親切と言えるのでしょうか。

 善の心は、人真似をしたり、人に教え込まれて作られるものなのか、それとも生まれつき備わっているものなのか、あるいは歪みなく発達した心に生じるものなのか。

 おそらく、そのどれでもあり、どれでもない。

 善とは何かを教えることはできない。善がパターンに沿った決まり事であるなら、教えることもできるでしょう。しかし、そうではない。いつどのような状況で何をなすべきか、その全てを教えることは不可能だし、教えるべきでもない。人生そのものがパターンに当てはまらない、道のない広大な世界だからです。

 人生に道はないのだから、道徳を語ることに意味などない。そう思いませんか。

 ま、片道20分の通勤路を毎日通っている私が言うこっちゃないですけど。

 それでは、本日もお粗末さまでした。

道 -UC30 若返る勤労 Remastered-

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危ない「道徳教科書」

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