はてブのホッテントリ上位9記事までが、某有名ブロガーさんの刺殺事件に絡んだ内容である。
悲しみの声、怒りの声、嘲りの声、恐怖の声、貶す声。様々な感情や考えが、あの事件をきっかけに噴出している。
大勢の人が、この事件について語り、故人の思い出や人となりを語り、功罪を語っている。
しかしながら、どんな声も死者には届かない。
これらの声は、生者の間を反響しながら、徐々にネットの底に沈んでいく。
この事件から、何か学ぶことはあるだろうか。
おそらくは、何もない。
この事件を受けて、何かが変わったり、変わらなかったりするだろう。
それは対策であって、学びではない。
学ぶことがないというよりは、学べないだろう。
状況が特殊だからだ。
そして同時に、原因がありふれているからだ。
彼の死は無駄だったのか。そんな問いは無意味だ。
人の死に意味があるとかないとかは、生者の都合で決めることだ。
死者には何の関係もない。
死は絶対だ。意味や価値といった相対的なものとは相容れない。
学歴、地位、財産、職業、身長、容姿、なにひとつ関係なく、平等に訪れる。例外はない。
生きることは死と隣り合わせだ。
つまり、生者はみな平等ということなのだ。
ネットで注目を集める人気ブロガーであろうと、世間の片隅に追いやられ、忘れられた人間であろうと、死の前において等しく生者なのだ。
あらためて、人が殺し、殺されることの無意味さを思わずにはいられない。