なぜ私は私なのか - Wikipedia
私が私であるという前提を疑えよ
2018/02/02 09:40
私という意識がこの体にあり、五感を通して世界を見ている。この広い宇宙の中で、ただひとつの地球の中の、とある場所に生きるただ一人の人間という生き物の体に宿る意識として私はある。他の誰でもなく、他の何でもなく、なぜこの体、この存在としてあるのか。というような問題でしょうか。
この問題に、誰もが納得できるような明確な答えというのは出せないでしょう。
私は、この問いに対する答えはその人の意識のレベル?によって異なると思います。その人の意識がどういう次元にあるかによって、答えは変わってくるはず。意識の次元とか言うとややこしいか。意識がどの視点からこの問題を見るか、と言ったほうがいいかも。
そもそも「私」は私にしか見えない、という時点で完結しているというか、詰んでますよね。客観的に検証できないもの。またそうでなければ「私」として成立しませんし。外界から隔絶し、閉じているからこその「私」なので、客観的に測定できるはずがありません。
測定できない時点で、思考による問いを拒絶しているとも言えます。思考とは比較・測定・計量の道具ですから、比べることも量ることもできない「私」を問うことに最初から無理がある。
つまるところ、「なぜ私は私なのか」という問いは、「私とは何か」という問いと同義だと思います。だから人それぞれ千差万別の答えが出てくる。
「私は私だ」
「私は世界だ」
「私は存在しない」
ある人にとって、「私」とは単なる言葉、概念であって、人間という動物の脳内に起こる一連の反応に名前を与えたにすぎない。またある人にとって「私」とは私が観ている世界そのものである。はたまたある人にとって「私」とは「神」の別名である。
そのどれもが正しく、どれもが正確ではない。いや、おそらく「正しい」とか「正確だ」という概念も適用できないのが「私」なのでしょう。「正しい」と言うためには「正しくない」ものがなければならない。
しかし「私」は私以外になく、他に比べるものがないのだから「正しい」も「正しくない」もない。他人の「私」と私の「私」を比べることはできませんからね。だいたい「他人の私」ってなんだよって話です。
そういったとりとめもないことを考えるのも、たまには面白いんじゃないかなということで、今日の話はおしまいです。
ではまた!
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