心は空気で出来ている

空気を読むな、呼吸しろ。

感受性とか心の器とかそのキャパとかの話。 ~違う、そうじゃない~

nyaaat.hatenablog.com

 こういう話、わりと好きなので掘り下げてみたいと思います。

 最初に断っておきますが、僕個人の感覚としては、上の記事のような考え方はわからなくもない。しかし的は外れてるな、という気がします。「違う、そうじゃない」と言ってしまいたい衝動にかられます。その衝動に駆られてこの記事を書いているわけですが、あくまで個人の感想なので、あまり真に受けずに読んでいただければよろしいかと思います。

 感受性、という言葉はちょっと綺麗だし、人が何らかの出来事を受け取るアンテナの感度、という程度の意味合いとすればわかりやすいので簡単に使ってしまいがちですが、実のところ、感受性の強弱と、心の強弱とは全く関係がありません。感受性が鋭くて心の強い人もいれば、感受性が鈍くて心の弱い人もいます。

 いわゆるメンヘラ系の人にありがちな話として、普通の人にとって何でもないことを、すごく重く受け止めたりして、自己嫌悪やら妄想やらが止まらなくなる、といったことを聞きます。これは感受性が強すぎるからだとよく言われますが、感受性云々というよりは、妄想が暴走しやすい傾向にある、ということだと思います。

 僕の考えでは、心の強い人と弱い人の違いは「恐怖への耐性」にあります。いわゆる心の弱い人が、なぜいろいろなマイナス思考や妄想に囚われやすいのかというと、そのような思考に囚われることで恐怖を覆い隠そうとするからです。その内容が楽しかろうと苦しかろうと、とにかく何かを思考し続けることで頭をいっぱいにしておけば、とりあえず恐怖から目を逸らすことはできます。

 しかし実は、頭の中を妄想で充満させておくことは、恐怖を充満させておくことと同義です。なぜかというと、恐怖から目を逸らすことがますます恐怖を増幅させるからです。見えないこと、わからないことが恐怖を助長するというのは簡単な事実ですよね。

 心の弱い人は、妄想で築き上げた自分の殻に閉じこもり、その中の材料だけで物事を捉えようとします。だから何か新しいことを体験すると、その体験への恐怖を覆うために妄想を総動員します。知らないものを見たくないので、知っているものでそれを包み込んでしまうのです。

 感受性の豊かさとは、知らないものをそのまま受け入れる心の柔軟性です。自分がそれまで知らなかったものを受け入れることは、心にそれを受け入れるだけの余地がなければできません。つまり、心が空っぽでないと何も受け取れないということです。知っていることで充満した心に、新しいものが入ってくる余地はありません。単純なことです。

 感受性が豊かなら、心が新しいものを受け入れるなら、妄想が入り込む余地はありません。そして見るもの全てに新鮮さが宿ります。夕焼けでも、カラスでも、皮膚病で頭の禿げた猫でも、その猫が道端に落としたフンでも。満員電車でも、嫌いな上司でも、スカートの短いお姉さんでも、エグザイルのジャージを着たお兄さんでも。なぜなら、それらは自分が知っている昨日とは違う、新しい体験だからです。

 心の弱い人は、空っぽであることを何より恐れます。知らないこと、新しいことを受け入れるには空っぽでなければいけない。でも空っぽになってしまうことは死ぬほど恐ろしい。だから知っていることで心をいっぱいにする。それが堂々巡りの思考や妄想といった形で現れるのです。

 心の弱さとは、自分の心の器を手放さず、すべてをその中で処理しようとすることです。だから、器に入らないものは処理しきれないし、器が壊れたといっては落ち込んだりするのです。心の強さとは、器を持たないことです。器の形や大きさなどは関係ありません。器の形や大きさにこだわるのは弱い人です。強い人はそんなことに興味を持ちません。器は単に器でしかなく、必要に応じて使えばそれで事足りるからです。

 一般に、心が強いことは善いことで、心が弱いことは悪いことだと思われがちですが、心の強弱と善悪の概念を結びつけて考えるのは愚の骨頂です。さらに、心が強いとか弱いとかいう考え方も、所詮は方便でしかなく、実際の心のありようと向き合う時には不要な概念です。

 心が強いとか弱いとか、器が大きいとか小さいとかは、心の本当の意味とは無関係な話です。自分が思う以外のところで、心が本当に存在しているのかどうか、考えたことはありますか?自分とは何か、心とは何か、本気で真剣に考えたことはありますか?

 ……って、誰に聞いてるんだ?

 

違う、そうじゃない

違う、そうじゃない