心は空気で出来ている

空気を読むな、呼吸しろ。

哲学的ゾンビとは私が実在すると信じたい思考が生み出す幻想なのである

 この話題、突き詰めていくと個人的な感覚の問題に帰結すると思うので、所詮は伝わらねえょと思いながら書くしかないんです。そう思うのもあくまで僕個人の感覚に依るところなので、そこんところ踏まえた感じでお読みください。こんな話に興味ない方は、ここから別行動になります。また逢う日まで、ごきげんよう。

 

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 この漫画で言われている「私」というのは、何なんでしょうね。まるで人の心の中に常時「存在」していて、それが消えてなくなると心も無くなってしまうかのような表現がされています。僕はどうもここに引っ掛かりがあります。引っ掛かりが、ありまぁす。

 哲学的ゾンビというテーマ?考え方?に、僕はそもそもの初めから釈然としないものを感じていましたが、哲学的ゾンビの概念をわかりやすく表現した(?)というこの漫画が、奇しくもこの概念の穴を的確に表しているように思いました。いや、わかりませんけども。僕自身が哲学的ゾンビのことをわかってるのかどうか怪しいですからね。おまえが哲学的ゾンビの何を知ってるってんだよ!みたいなね。

 左右のコマが登場人物の精神を表していて、薬を飲むことで「私」が死に、心は真っ暗闇の無になる、という寸法ですが、真ん中のコマは何を表しているのでしょうか?右側が友達視点、左側が主人公視点だとすると、真ん中は誰視点?第三者?それとも神の視点?これ大事なことですけど、見落とされがちです。

 「私」あるいは「自我」あるいは今これを書いている「僕」は、果たして常在するものなのかどうか。「私」は「心」と同一なのかどうか。僕が消えたら、この漫画のように心まで無くなってしまうのか。人は単に、刺激に反応する巧妙な生体ロボットにすぎないのかどうなのか。

 僕の捉え方としては、僕は常に心の中にあり、思考や行動を司っているわけではなくて、何らかのきっかけで生じる一時的な自意識でしかないと思っています。思っているだけでなくて、実際にそう感じ、認識しています。ただ、僕という意識の底には、まるで自分が意識、心、あるいはこの僕という人間の支配者であるかのように振る舞う癖があります。

 簡単な例えで言うと、いわゆる魂みたいなもの、独立した人格が僕の脳あるいは肉体に宿っていて、人生における様々な出来事に反応し、判断し、対応している、というイメージです。多少の違いはあれ、「私」というものに対するイメージは世界共通でそんなもんだと思います。

 でも、自分とは何だろうと考えて観察して突き詰めていく中で、どうもそのイメージは事実とは異なるんではないかと思い始めました。僕の中での「私」とは、人の心、精神活動あるいは脳細胞の働きを、それ自身が意識することで生まれる一時的な概念です。心を司っているわけでも、人生の主人公でもなく、まして普遍的な魂でもない。

 「私」という概念(存在ではなく概念と呼びます)は、人が想像するほど確固たるモノではないし、何かをコントロールしたり影響を及ぼしたりするものでもなく、単なる想像上の存在、神様や妖怪と似たようなものだと思っています。

 思考を追っていくとわかるんですが、「私」はだいたい後付けです。何かを考えたり、行動したりした後で、それは「私」がやったのだと言います。あるいは後付けでなければ前もって準備されています。「私」があれやこれをするのだ、という準備(決意と呼んだりします)をしておいて、考えたり行動したりする。これは「後付けの前借り」で、やってることは同じです。

 だけど、そんなことは実際の生活全体からするとごくわずか。ほとんどの時間は無意識に考え、行動し、たまに何かきっかけがあると「私」が出てきて主人公ヅラをするだけです。

 さて、ここからまた少し話がややこしくなりますが、ここまで書いてきた「私」とは別に、もうひとつの「私」があります。区別するため、さっきまでの「私」を「私A」、もうひとつの「私」を「私B」とします。

 「私B」は、人が乳幼児期から自然に獲得していく意識で、これは人がいろんなことを経験するうち、勝手に生じてくるものです。いわゆる「物心がつく」というやつで、それが「私B」の誕生です。「私B」は、人の生き物としての基本的欲求をベースにしたもので、つまりほとんど本能優先で構成されています。

 これが思春期あたりになると、自意識が生まれてきます。それまで優勢だった「私B」を客観的に見る観察者である「私A」の誕生です。「私A」が出来上がると、こちらが優勢になり、「私B」は意識の底に沈んでいきます。が、実権を握っているのは「私A」ではなく「私B」のほうです。自分という人間の行動の基盤を作っているのは「私B」であり、「私A」は単にそれを観察してああだこうだと口を出すことしかできません。しかし「私B」は「私A」の言うことはほとんど聞いちゃいません。

 もし「私B」が「私A」のことを素直に聞くなら、僕もあなたも理想通り、思い通りの自分になれてるはずじゃないですか。あまりにも「僕B」が「僕A」のことをないがしろにするので、僕Aはもう理想の自分なんて忘れてしまいましたけども。

 「私A」は自分こそが主人公だと思い込んでますが、実際には「私B」の観察者でしかなく、「私B」の思考や行動が、まるで自分の意思の結果であるかのようなフリをしているだけです。だからダイエットには失敗するし、決意したことも3日で挫折するんです。

 例えて言えば「私A」は「私B」というOSの上で動くアプリみたいなもんです。何かのきっかけで起動しては終了する。記憶領域は共有しているので、昨日起動した「私A」と今日起動した「私A」は、あたかもひとつのアプリとして連続して動いているように見える。見えるけど、実際には別物。そういうイメージです。

 哲学的ゾンビの話で言われる「私」というのは、「私A」のことであって「私B」のことではない、と思います。哲学もクオリアも「私A」の世界の話で、「私B」とは何の関係もないからです。私が消えたら私の中の世界も消える、というのは、「私A」が直接世界と関わっているという勘違いから生まれる幻想です。「私A」は「私B」を通してしか世界と接触できないからです。

 はい、もうこれを書いてる僕Aの思考が話をまとめられなくなってきましたので、ぶっとばして結論だけ言うと、哲学的ゾンビなんてのは人生の主人公でありたい「私A」が作り出した幻想なんだよたぶん、という話でした。

 おわり!