心は空気で出来ている

空気を読むな、呼吸しろ。

自己言及には常に罠がつきまとうよねの巻


人は皆、洗脳されている - クソログ

 こちら読みまして。すべての人は何らかの形で洗脳されていると言える、という話。人の精神は世界をどう理解しているのか。世界をそのまま脳内に記録することができない以上、符号化、もしくは抽象化した形で世界を記憶し、抽象化された世界を見ているのであって、世界の実相を見ているわけではない、ということですね。

 話のとっかかりはすごく間口が広いんですが、具体例は卑近で、最後の締めは矮小化されていて、尻すぼみな印象を受けました。こういう話をわかりやすくしようとすると、これは避けられないことなのかもしれません。

人間が言葉を使って体験を記憶したり表現したりしている以上、我々が認識している情報は必ず、省略・歪曲・一般化といったプロセスを経ることになります。つまり人間の理解は、元々不完全なのです。
しかし不完全だという自覚がなければ、そのことに注意を向けたり対処しようとすることができません。ですからまずは、このことを強烈に意識することが重要です。
人間の理解は不完全です。この理解があってはじめて、我々は先入観や思い込みから自由になり、自分の思い通りの人生を歩むことができるのです。

 ここで、先入観や思い込みから自由な状態で、果たして自分の人生を思い描くことができるかどうか、という疑問が生じます。『思い通り』の『思い』もまた、先入観や思い込みの産物なのではないか……という疑問です。僕の読み込みが浅いだけで、あまり深く突っ込むと墓穴を掘るパターンかもしれないので、とりあえずここはそっとしておきましょう。僕はこの記事をきっかけに、言葉とは、思考とはなんぞやという方面に思考を繰り広げました。

 人が世界を意識するとき、そこに符号化というプロセスが挟まっていることは間違いないでしょう。人の心の外側に世界が広がっているという概念を採用するとしての話ですが。

 そこで、人の心を構築している思考について考えてみます。見たもの、聞いたこと、感じたことなど、人は外界からの刺激を符号化して記憶します。そのように記憶しているとわかるのは、そのような形で思い出すことができるからです。すべての情報を記憶しているわけではなく、より強い印象を中心に、その周辺はぼんやりざっくりと記憶している。あるいはそのような形でしか思い出せない。

 人によっては、すべての情報をくっきり記憶している場合もある(サヴァン症候群など)らしいので、普通の人でもすべてを記憶しているのかもしれません。だとすると、思い出す機能が限られているだけということになりますが、それはどっちでもいいでしょう。たとえ全てを記憶していても、思い出せなければ記憶していないのと同じですからね。

 さて、そうした精神活動の基礎となるのが言葉です。記憶のインデックスとしての言葉。言葉によって記憶と記憶が関連付けられ、組み立てられ、概念が生まれる。概念はまた言葉によって組み合され、さらに複雑な概念が生まれる。外部のものごとに一対一で対応した単純な言葉だけでなく、現実には存在しないものごとについての概念も生まれる。

 しかし元を辿れば、言葉というのは現実世界に存在するものや現象を、その現場にいない人に伝えるための道具です。どこそこのなんとかいうお店に美味しいホニャララがあったよ、ということを知らない人に伝えるものです。現実に存在する場所を「どこそこ」、お店を「なんとか」、メニューを「ホニャララ」という言葉で表しています。

 言葉には、基本的には必ずそれに対応するものごとがあります。りんごという言葉は、その名で呼ばれるある種の果実に対応します。あるものごとと、それを表すための言葉、という対応関係があります。言葉というものを考えるとき、この一番単純な基本の性質が、一番重要な部分になります。

 人が自分自身の思考・意識に思いを巡らせるときに避けて通れない墓穴が、言葉のこの二重性です。言葉はそれ自体で独立したものではなく、その言葉によって表される対象に依存しています。では言葉によって構築される思考が、自分自身について思考するとき、すなわち言葉が言葉を表そうとするとき、何が起きるでしょうか。

 例えて言うなら、合わせ鏡のような現象が起きます。対象物を映す鏡が、鏡自身を映したら、延々とどこまでも自分自身の姿を映し続けることになります。人が自分自身について言及するときも、同じことが起こります。思考が思考を、精神が精神を、意識が意識を映す時、そこに合わせ鏡が現れます。抜け出せない無限のループ。

 自分Aとは何かと考える自分Bは、思考の対象としての自分Aから切り離すことができるのかどうか。切り離すことは妥当なのかどうか。切り離せないとしたら、そもそも思考の対象たり得るのかどうか。自分Aと自分Bを切り離した時点で、それはもう自分についての思考ではなくなるのではないか。

 などという非常にややこしい展開になってしまいます。

 実は、合わせ鏡の罠を回避する方法はあります。

 でもここじゃ言えない。

 言えば合わせ鏡の罠にハマるから。

 なんじゃそりゃあ!

 以上。