心は空気で出来ている

空気を読むな、呼吸しろ。

問題を解決することが事態を好転させるわけではない

 何かちょっと降りてきた()ようなので、つらつらっと書いてみます。

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 人が抱える問題・悩みというのは、大雑把に分けると二種類あって、例えば就職がうまくいかないとか借金が減らないとか、車で事故ったとか病気で入院する羽目になったとかいう、いわば外面的な問題と、職場にどうしても反りの合わないやつがいるとか、自分の姿形にコンプレックスがあるとか、生きてる意味がわからないとかの、内面的な問題があります。

 実のところ、外面的な問題も内面的な問題も、元を辿ればすべて自分の心が抱えているものであって、環境や出来事に由来するものも、トラウマやコンプレックスに由来するものも、全部心の問題だと言っても過言ではないと思います。環境、出来事、精神状態、それら自体には良いも悪いもなく、単なる現象でしかありません。それを問題と捉えて悩み苦しむのは自分の心です。

 風邪を引いたから医者に行くとか、虫歯が痛むから歯医者に行くとか、骨を折ったから外科に行くとかいうのは、単純に体の故障なので当たり前のことですが、それを気に病んでうじうじすると心の問題になります。

 心は問題を解決するためにいろんなことを試します。お金の問題なら、ギャンブルに手を出したり、株をやってみたり、ひたすら働いたり。体の調子が悪ければ医者にかかるし薬を飲むこともあるでしょう。精神的な問題なら精神科に通うとか、カウンセラーに頼るとか、酒や薬に走ることもあります。

 心は、自分が抱えている問題を何らかの方法で解決すれば、気分が晴れて楽になれると考えますし、それが普通と言えば普通なんですが、心が実行する何らかの方法というのはだいたい的外れです。

 心の問題は、体の怪我や病気、機械の故障とはわけが違います。薬や手術などの治療を施したり、部品を交換したりすれば解決するものではありません。にもかかわらず、人は往々にして心の問題とそれらを混同し、なんとかして治療しよう、直そう、元通りにしようと企てます。そして、その試みがさらに事態をややこしくします。

 人が何らかの問題にぶつかったとき、それを問題と捉えた時点ですでに抵抗が始まっています。もっと細かく言うと、ある出来事に遭遇し、それを問題だと捉え、解決しようと試みる、その試みがすでにして出来事への抵抗なのです。

 ある出来事に遭遇したとき、それへの正しい対処というのはほぼ決まっています。その正しい対処に抵抗があるとき、出来事を問題だと言って対処を先延ばしにすることを「悩み」と言うのです。おそらく、人は出来事への正しい対処を初めから知っているのですが、自分の中の偏見、価値観、恐怖心、自尊心など諸々の抵抗が正しい対処を阻み、ただの出来事を問題、悩みにしてしまいます。

 ある問題が解決するということは、何らかの方法や過程を通じて正しい答えを得る、のではなくて、初めから決まっている「正しい対処」に心が抵抗しなくなることです。心の抵抗がなくなると、出来事を問題とみなさなくなり、悩むことをやめ、やるべきことをやるための元気が湧いてきます。だから、解決というよりは解消と言ったほうが正確なのかもしれません。問題は答えを得るのではなく、消えてなくなるのですから。

 問題を解決することで悩みが消え、心が解放されるわけではありません。

 心が解放され、悩みが消えることで問題が解決されるのです。

 心が解放されれば内面的な問題は消えてなくなります。すると悩むことでエネルギーを消耗していた心が元気を取り戻し、外面的な問題を解消するための行動を起こせるようになります。言葉にするとどうしてもシーケンシャルにならざるを得ませんが、実際にはこの過程は順番に起きるのではなくて、ほぼ同時進行です。

 ではどうすれば心が解放されるのか、と聞きたくなるところですが、それをすると心を解放するための方法を探して頭を悩ませることになります。心の世界では、頭で考える摂理に逆行することが起こりうる、としか言いようがありません。

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 心の中の現象を表現するのに、言葉はどうにも不便です。同時にいろんなことが起こる立体的な心の現象を表そうとすると、言葉がいかに平面的で直線的かということを痛感します。今回書いたことは、現象をある側面から見た平面図にすぎません。もっと別の見方、別の表し方もあるはずですが、今の僕にはこれが限界かなと思います。本当は言葉が不便なのか、言葉を操る自分の能力が不足しているだけなのかはわかりませんけどね。

 こちらからは以上です。