心は空気で出来ている

空気を読むな、呼吸しろ。

言葉の不完全性、心理的事象と言葉の変換に伴う損失あるいは変質

 ひかりTVのお試し契約中なので、BGMとして80’sJ-POPチャンネルをつけて懐かしい歌謡曲を聞きながらこれを書いています。ちらと画面を見たら、どこか知らない外国の街角で、カメラを向けられた若者が笑顔で手を振っています。その映像と共に流れているのは、近藤真彦の「愚か者」。撮られている若者たちは、自分たちの映像が「愚か者」というタイトルの曲に使われているとはよもや思いますまい。 

 さて今日のお題はこちら。


言葉の不完全性の話 - ネットの海の渚にて

  この、言葉のもどかしさ、言葉が生む誤解、トラブルを、僕も随分見てきたし、経験もしてきました。初めてネットに触れたのは、パソコン通信ニフティサーブ。そこではフォーラムと呼ばれる掲示板群が運営されていて、僕はそのフォーラムのうちのひとつによく出入りしていました。

 パソコン通信の時代は、みんなハンドルネームを使ってはいたものの、会員登録時には本名や住所などの個人情報を運営会社に渡しているので、今ほどひどい罵詈雑言は飛び交っていなかったと思います。なんと言うか、今よりもネット越しに「人」が見えてました。とはいえ、問題を起こす人はいましたし、トラブルがなかったわけではありません。

 僕が入っていたフォーラムでは、特にこれといったトラブルにみまわれた記憶はありませんが、掲示板を使って日々激論が交わされていました。主張したり、反論されたり、共感を得たり、実に様々な意見がテキストのみでやりとりされていました。今みたいに文章の間に画像を挟むなんてこともできませんでしたから、まるっきりテキストのみです。

 その頃から、僕は言葉の不完全さ、言葉が原理的に抱えている二重性というか虚偽性のようなもの、言葉を使うがゆえに起こる問題などに関心があり、むやみに言葉を信仰する人たちと衝突することもありました。まさにその衝突の中で、言葉の不完全さを痛感し、言葉だけでコミュニケーションをとることの難しさに、無力感を味わったこともありました。そうした経験を繰り返した挙句、言葉の不完全さを主張し、伝えようとしていた自分自身が、言葉への信仰に侵されていたのだと気づくに至りました。

 言葉では本当のところは伝わらない。自分の心の中にあるものを、言葉で完全に表現することはできないし、まして他人に伝えることなど原理的に不可能。例えて言うなら、心の中にあるものはアナログだけど、言葉はデジタルで、アナログの信号に含まれてるカーブを直線的に切り取ってしまうようなイメージ。

 僕は僕のルールでアナログをデジタルの言葉に変換する。受け取った相手がそれを自分のルールに従ってアナログに変換すると、変換ルールが違う相手の中では、僕の中のアナログ信号とは違った形に復号される。

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 この変換ルール自体を、相手とのやりとりですり合わせ、復号の精度を高めることはできるはずなんですが、ものすごく面倒だし、そこまでして精度の高いコミュニケーションを図りたいと思う相手も、それに応じてくれる相手もなかなか見つかるもんじゃありません。それに、いくら精度を高めたとしてもデジアナ変換は必要なわけで、100%一致することなんてあり得ませんよね。

 それに、心の中にあるものを言葉として表現した時点で、心の中にあるものもまた、言葉に影響を受けます。誰かに伝えようと言葉を尽くす過程で、いつの間にか何を伝えたかったのかが自分でもわからなくなることがあります。また自分の言葉だけでなく、相手の言葉にも影響を受けます。これが相互に起こるので、言葉のみによるコミュニケーションは、ほとんど誤解しか生みません。

 それでも僕はこうしてブログを書いているわけですが、これは伝えようとして書いているのではなくて、単に表現として書いているだけなので問題ないです。記事の内容について誰かにツッコまれたとしても「コミュニケーションを取ろうとしているように見せかけて自分の表現のみを追求する」技術(?)を知らないうちにマスターしていたので、たぶん問題ないでしょう。ブログでそんな技術を使う機会があるのかどうかわかりませんけどね。

 それでは今日はこんでおしまい!