こういう話が大好きでしてね。
引用元の記事
の、さらに引用元記事
http://www.h5.dion.ne.jp/~terun/doc/jiyuu.html
にも、半年くらい前に出くわして、ひと通り読んでおります。
id:michiakiさんの記事のオチは面白いなと思います。結局、自由意志があろうがなかろうが、何も変わりやしませんわな。それが、脳科学であったり哲学であったり、そういう専門領域に収まってて、一般人の意識に入り込まない間は。
こっからは個人的主観的体験の話になるので、話半分で聞いてもらえれば。
自由意思が存在するかしないかという問題以前に、そもそも自由意志とは何じゃろか?ということを考えると、自由意志とはすなわち自我であるということになりますね。なるんです。僕の中では。自分の意思というのは、他の誰でもない、自分だけの意思、すなわち自分そのものの表現とも言えるわけだから。
そうすっと、自由意志の存在を否定するということは、自我すなわち自分自身の存在をも否定することになる。今これを書いている僕という意識、そしてこれを読んでいるあなたの意識。その意識、自分という意識がそもそも存在しないのだと。
いやいやいやいや、あるじゃん。存在してるじゃん。だっていま考えてるじゃん。自分が。意識してるじゃん。書いてるじゃん読んでるじゃん自分が。いるじゃん自分。なに言ってんの?
その意識は「自分の」意識なのか。「自分の」思考なのか。それとも意識や思考が「自分」を作り出しているのか。「意識の」自分、「思考の」自分なのではないか。おわかりいただけただろうか?
この「自分という存在は思考が作り出した幻想であり、実在はしていない」ということ。とある個人の脳内に蓄えられた知識、経験、記憶をひっくるめて名前をつけただけのもの。それが自分なのだということ。
これを、単なるひとつの考え方、ものの見方として、数ある知識のノートに記録しておくだけでは、何も起こりません。しかしこのことを、自らの思索をもってたどり着いた事実として「実感」すると、何かが起こります。おそらく初めは恐怖が。その恐怖を通り抜けると、今度は「解放」が。
自我の存在が否定されるということは、自我の解体によって精神がその枠組みから解放されるということです。解放された精神が感じるものは「自由」「拡張」「歓喜」「全能感」などです。はい、非常に危険ですね。まるでイケナイお薬でも服用したみたいです。もちろん僕は服用したことはありませんので、あくまで伝聞としてそういうことが起きるらしいと知っているだけですよ?
精神が解放されると、いわば「悟り」を開いたみたいになるわけですが、そう長続きはしません。人の心は汚れやすいんです。汚れ(自我)が溜まると悩みが起きる。→解体する→悟ってヤッホーイ→汚れる→悩む→解体→ヤッホーイ。この繰り返し。
こんなことの繰り返しに意味があるのかと問われれば、わかりませんとしか言いようがない。でも悩んでいるよりは解放されたほうが気持ちいい。だから繰り返しています。だって”自由意志”じゃなくて”自動意思”なんだからしょうがないもんね。
ところで、記事タイトルの意味が分かる人はだいたい40代以上でしょうかね。