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差別表現への反応 ―人は差別をどうしたいのか―

全然話まとまんないけど、なんなんだよ、差別用語って!!!!!!あ? - 感情迷子中のあんずです。

 こちらの記事を遡って、ちょっとした騒ぎが起きていることを知りました。

はてブで「池沼」と罵るは削除に値する差別的表現でないというのが株式会社はてなの公式見解 - 漫画(ry跡地

「言葉狩り」とか言ってる人たちはもう少しまじめに考えてみようね - 想像力はベッドルームと路上から

差別用語をどこまで拡大解釈するかという話 - 価値のない話

差別的表現と「差別用語」と当事者と第三者 - 一本足の蛸

 差別をめぐる終わらない物語です。ネバーエンディングなストーリーです。そう、人類が新たなる精神の高みへと進化を遂げでもしない限りはね。

 終わらないストーリーに参加するつもりはないので、この騒ぎに関して直接的なコメントは避けたいところですが、差別という問題について自分なりに考えてみました。たまには真面目なことを考えないと頭が弱りそうな気がして。

 差別はよくないことだとされています。なぜかと言うと、差別によって人が苦しめられ、殺されたりするからです。という展開をしていくと、「なぜ人を殺してはいけないのか?」と同じような壁に当たることになると思うので、ちょっと別の方向から行きましょう。

 差別することは気分がいい。これが基本です。なぜ人は差別するのか?気分がいいからです。別の言い方をすると、安心できるからです。差別の根底にあるのは、知らないものに対する恐怖心です。知らない、わからないものがあると、人はそれを差別して自分が優位にあると思いたがります。つまり安心したがります。安心したいという気持ちは恐怖を免れたいという気持ちと同じです。あらゆる差別が生まれる土壌はここにあります。たぶん。

 「偏見」というのがありますが、あれも同じ原理ですね。差別の前段階と言ってもいいかもしれない。必ずしも差別にまで発展するわけではありませんが、この偏見も、知らない・わからないという恐怖から身を守るために作られる壁です。とりあえずレッテル貼っとけば、中身はわからなくても知ってる体(てい)で話ができますから。

 差別・偏見は、無知から生まれるということですね。知らないことを強引に知ってるフリして怖さをごまかしている。知らないから怖い、怖いから見たくない。遠ざけたい。それが対象への攻撃性として現れる。偏見に凝り固まった差別主義者をよく観察してください。例外なく、その差別対象を恐れています。その他にもいろんなことを怖がっています。攻撃的なのは臆病だからです。

 さて、差別や偏見が恐怖心から生まれるということはわかりました。恐怖心というのは本能に根差したもので、人間であれば誰もが持っています。程度の差はあれ、誰でも偏見でもって心を防御していると思います。いや、防御っていうか、なんかもっと心の基本的な機能として必要というか、そんな感じ。そこまで言い出すと一晩で終わらないのでやめときますが。

 差別に対する怒りは、差別に含まれる軽蔑やらなんやらといった心情とその意味合いを知っているからこそ生じるものです。差別する側が、どのような心理状態であるか、差別するとはどういうことか知っている。そしてそのような心情をもって見られることに傷つき、怒りを覚えるわけです。つまり、差別に怒りを覚える側にも、差別する側と同じ心理状態が共有されている。ここすごく重要なんですが、伝わりますかねぇ。

 差別する側と差別されて怒る側は、同じ土俵に立っているとも言えます。しかし、差別とは何かを本質的に理解するためには、差別をめぐる争いの土俵を降りる必要がある。怒りと報復の表現規制では、差別表現を撲滅することはできたとしても、差別そのものはノーダメージ。びくともしない。

 差別表現に反対することが、いわゆる言葉狩りではないと言うのなら、差別そのものをなんとかするために声を上げていると言えなければならないはずですが、実際のところはなんともならないということです。

 以上、ちょっとネバーエンディングストーリーに絡んでしまったところもありますが、差別に関する個人的見解を展開してみました。奇特にも最後まで読んでくださった方、どうもお疲れ様でした。