心は空気で出来ている

空気を読むな、呼吸しろ。

西遊奇 -6-

第六章

 

 翌朝、太極門にある楼閣の一つに宿を取った玄奘たちは、再び、太極図のある場所に集まった。玄奘、八戒、悟浄、珪、そして悟空。悟空は、500年ぶりに外の世界を見たいと言って、一晩中どこかへ行っていた。

 「珪、いろいろと助かったよ。ありがとう」

 「いいえ、どういたしまして。帰りにはまた寄ってくださいね。今度は普通の美味しいお茶をご馳走するわ」

 八戒がうなずく。

 「ぜひお願いしたいものだ」

 「お前は一晩中どこ行ってたんだ?」

 悟浄は悟空の行動が気になるようである。

 「いろんなとこ」

 「もっと具体的なことを聞いてんだけどな」

 悟空は珪に編んでもらった髪をもてあそびながら、悟浄の言葉を聞き流した。

 「玄奘、みんなガンダーラへ行くの?」

 「そうだ。お前の力でなるべく早く行きたいんだが」

 「筋斗雲ならすぐ行ける。昨夜見て来たから、場所はわかってる」

 「見て来た?ガンダーラをか?」

 「うん。珪にだいたいの場所は聞いてたから、確認してきた」

 「一晩でガンダーラまで……?一体どういうことだ?」

 「これからわかるわ」

 悟空の代わりに、珪が楽しそうに答えた。玄奘が戸惑っているのが面白いらしい。

 「じゃあ、筋斗雲出すから」

 悟空が唐突に言うと、両手を前に出して手のひらを揺らし始めた。すると、地面から湯気のようなものが立ち上り始め、みるみるうちに玄奘たちの視界を白い雲が覆う。悟空はさらに、左右の手のひらを別々に動かし始めた。玄奘には、その動作が、書架に並べられた本を、ここからそこへ、あそこからここへと移動するジェスチャーのように見えた。やがて、雲の中にうっすらと黄土色の染みが浮かび上がってきた。染みはどんどん広がり、黄土色だけでなく緑や白、青色を交えた泥壁のようなものに変わった。泥壁には、葉脈のように枝分かれした筋や、盛り上がった皺のようなものが見える。所々に青黒い穴も開いている。それは、ある土地をはるか上空から見た景色だったのだが、玄奘たちには一体何が見えているのかまだわかっていなかった。普通の人間には、それほど高い視点から地上を見る機会などないのだから、当然のことである。悟空が手を動かすごとに、景色は拡大され、視点は地上に近づいていく。

 「ガンダーラのどこに行くの?」

 悟空は玄奘に聞いた。

 「王都プルシャプラから北東へ二十里のところに、ダンダロカ山という山があるはずなんだが……そこへ行けるか?」

 「ダンダロカ山……無理ね。雲がないわ。筋斗雲は、雲から雲へ跳ぶ術だから、雲が無いところへは行けない。少し離れてるけど、プルシャプラという都なら、雲が出てるから行ける」

 「そうなのか。まあいい、いきなり山に入るより、都で情報を集めてから行ったほうがいいだろう。で、どうやってそこへ跳ぶんだ?」

 「ちょっと待って……今、跳ぶわ」

 いきなり、足元から分厚い雲が沸き出し、玄奘たちの体をふわりと持ち上げた。

 「じゃあ、気をつけてね!」

 珪が言い終わらないうちに、玄奘たちの体は雲に映った異国の地へと吸い込まれていった。

 

 玄奘は、視界を真っ白な雲に覆われ、やがて後頭部にじんわりと痺れを感じた。その痺れが消えていくと同時に、雲が晴れていき、周囲には見慣れない風景が広がっていた。玄奘たちは、両側に草の生えた細い道の脇に立っていたが、その道を辿って一里ほど離れたところに、石造りの巨大な寺院や、異国の建物が並ぶ都が見える。

 「あれは……ガンダーラなのか?」

 「そう」

 悟空は当然という顔で玄奘を見上げている。八戒と悟浄は、まだ信じられない様子で辺りを見回している。

 「なんというか……あっけないものですな」

 「本当にここがガンダーラとかいう国なのかよ?そんな簡単に……ちょっと確かめてくる」

 そう言うと、悟浄は都の方から歩いてくる男に駆け寄り、声を掛けた。男の服装は、唐の人々が着ているものに似ているが、少し形の違う、ゆったりした白い服を着ている。頭には白い布を被り、後ろに垂らしている。肌の色は浅黒く、目鼻立ちのはっきりした異国の顔である。悟浄は、身振り手振りを交えながらその男と言葉を交わしていたが、すぐに戻ってきた。

 「だめだ、全然言葉が通じねえ。本当にガンダーラみたいだぜ」

 玄奘たちは、悟空の仙術・筋斗雲によって、ガンダーラの王都、プルシャプラのはずれへと瞬時に移動していたのである。

 

 都に向かって草地をしばらく歩く。都が近づくにつれ、その景観に玄奘たちは圧倒された。ほとんどが石か煉瓦で造られた建物で、カラフルなタイルや、見事な幾何学模様の装飾が施された壁面など、唐の都では見ることのない建築物が立ち並んでいる。城郭のようなものはなく、都と外界を隔てる境界線がはっきりしているわけではない。道の両脇に少しずつ建物が増えていき、徐々に人通りも増え、やがて露店の密集する街中へと入っていた。王都だけあって、街は朝の活気に満ちていた。街道の両側に並ぶ露店では、野菜や果物、肉や魚が山のように積まれ、売り子が声を張り上げて客を呼んでいる。プルシャプラはガンダーラのほぼ中央に位置し、交通の要衝としても発展した街である。

 「で、こっからどうするんだい師匠?」

 悟浄は期待で目を輝かせている。街の活気に影響されて、気分が高揚しているらしい。もともと、人の集まる場所が好きな性分である。

 「まずは、腹ごしらえでもするか。それからダンダロカ山へ向かおう」

 「久しぶりにまともな食いもんにありつけそうだな……飯の後にちょっと見物に行ってもいいかい?」

 「別に構わんが……迷子になるなよ?」

 「子ども扱いするなよ師匠。俺は初めての街でも迷子になったことなんかないぜ」

 「そうか。まぁいいが、昼までにはここに戻れよ」

 「わかってるって、さぁ飯だ飯!」

 玄奘たちは手近な食堂に入り、見慣れない異国料理を食べた。悟浄以外はみな、天竺の言葉に通じているため、同じ言語圏であるガンダーラでも意志の疎通に困ることはない。悟浄は食事を終えると、通訳として悟空を伴い、早々に街へ繰り出していった。残った玄奘と八戒は、ダンダロカ山への道を聞くため、街へ出た。

 「玄奘どの、悟空の仙術、どう思いますか?」

 「あれは……仙術と言っていいのかどうかわからんな」

 「やはりそうですか。悟空の術には、仙気が感じられなかった……私のような妖怪が使う道術とも違う。何か、全く異なる体系の術のようです」

 「うむ。術式や神器を使っていたようにも見えん。詠唱らしきものも聞こえなかった。得体の知れん業だな。だが、とにかく便利なのは間違いない。今はあいつの術についてあれこれ詮索しても始まらんだろう。確かに興味はあるが……まずは降魔の槍を見つけるのが先決だ」

 「はい」

 話しながら歩く二人に、すれ違う人々が好奇の視線を向ける。唐からやってくる学僧や商人は珍しくないが、玄奘の体はガンダーラにおいてもやはり人並み以上に大きいため、いやでも人目を惹くのだ。そういった視線を意に介することもなく、二人は街の中心地へと足を向けた。

 

 一方、悟浄と悟空の二人は、異国の珍しい品物が並ぶ店から店へ、興味を惹かれるままに歩き回っていた。ある店の前で、悟浄が見慣れない形の剣を見ていると、訛りはあるがはっきりした唐の言葉で声を掛けられた。

 「お兄サン、唐の人?」

 店の奥から、髭を生やした五十がらみの男が、杖をつきながら出てきた。頭にターバンを巻き、首飾りを何重にもぶら下げている。日に焼けた顔には深い皺が刻まれ、何よりも目を惹くのは左目にあてられた大きな眼帯である。店の主人にしては怪しすぎる風体だ。こんな主人がふらふら出てくるような店から、ものを買いたいと思う人間はまずいないだろう。

 「え?ああ、そうだよ」

 「ココの店、珍しいモノいっぱいあるヨ」

 「あ、ああ……珍しいもんばっかりだな」

 「もっと珍しいモノある、見たい?」

 悟浄は男の怪しげな風体に、少し警戒心を抱いていたが、言葉の通じない異国に来てから初めて、耳慣れた唐の言葉を聞いたせいか、この男に僅かながら親近感を抱いていた。何か買わせたいものがあるのだろうと思ったが、言葉が通じるなら断ることもできる。

 「おお、見たい見たい」

 好奇心が勝って、男の言う珍しいものを見せてもらうことになった。男は一端店の奥に戻ると、細長い布袋を持って出てきた。布袋の口を縛ってあった紐をほどき、中のものを取り出すと、それは古びた槍だった。

 「なんだよ、槍なんて珍しくもないぜ」

 「コレ、ただの槍じゃないヨ。ゴウマの槍ネ。妖怪やっつける力ある」

 「ゴウマの槍?どっかで聞いたような……」

 「唐の人に人気あるヨ。10本あったケド、これで最後ネ」

 「10本?なんだよその仕入れ数は……伝説の法具じゃなかったのかよ」

 「デンセツ?それ知らないケド、最後の一本だヨ」

 「10本も仕入れてたんじゃありがたみがねぇな……けど、最後の一本か」

 この店だけで10本仕入れているということは、間違いなく贋物なのだが、最後の一本と聞いて悟浄の気持ちは揺らいでいた。

 「旅のミヤゲにどう?最後だから安くしとくヨ」

 「土産って……ますます安っぽいな」

 「そう、ウチの店、他より安いネ」

 「そういうことじゃねえんだけど……で、いくらなんだい?」

 結局、悟浄は怪しい店主が薦めるままに、降魔の槍を買った。店から出た悟浄は、槍が贋物だとしても、贋物なりに何かしらの力があるのかもしれないと思い、悟空に聞いてみることにした。

 「なあ悟空、これ見てどう思う?何か不思議な力とか感じないか?」

 「別に。ただの槍よ」

 「やっぱりそうか……まぁいいや、伝説の土産だと思えば……」

 「伝説って何のこと?」

 「おまえのことだよ」

 「?」

 ほんの少し落胆した悟浄は、悟空と共に玄奘たちとの待ち合わせ場所へ向かった。

 

 ちょうど昼時になろうという頃、悟浄と悟空の二人は玄奘たちとの待ち合わせ場所に着いた。玄奘と八戒はすでに来ており、悟浄たちが戻ってくるのを待っていた。

 「悟浄、なんだその槍は?」

 「ああ、さっき店で怪しい店主にもらったんだ。降魔の槍だってよ」

 「なに?どういうことだ?」

 「贋物だけど、最後の一本だっていうから、買っちまったんだ」

 「そんな贋物が出回ってるのか。ちょっと見せてみろ」

 玄奘は槍を受け取ると、柄や環の部分に目を凝らした。

 「特に妙な細工は仕込まれてないようだな」

 今度は八戒に渡す。八戒も、槍を隅々まで眺め、手でひねったりしてみた。

 「はい。これといって怪しいところは見受けられません」

 「何だよ怪しいところって……大丈夫だよ、悟空にも見てもらったんから」

 「そうか。だが、あまり妙な店に入るなよ。今さら言っても遅いが……」

 「いざという時は武器になるぜ。ま、長安に帰ったら骨董屋にでも売るけどな」

 「好きにしろ」

 悟浄は、見た目の重厚さに比べて軽いこの槍が、実は少し気に入っていた。

 「ところで師匠、ダンダロカ山へ行く道はわかったのかい?」

 「ああ。これから早速、山へ向かうぞ」

 玄奘たちはプルシャプラの中心街で、この街に住んでいる人間と、外から来ている人間の何人かに話を聞き、ダンダロカ山とそこへ至る道程について、ある程度信頼できる情報を得ていた。それによると、ダンダロカ山には古の神々を祭る神殿があり、信者たちが教祖と崇める人物を中心に、共同生活をしているらしい。玄奘はその神殿に降魔の槍があるのではないかと踏んでいたが、神殿と降魔の槍を結びつけるような話は全く出なかったという。歩きながら玄奘の話を聞いていた悟浄が、腕を組んで頷いた。

 「うーん……神殿とか教祖とか、いかにもって感じがするな」

 「ああ。ダンダロカ山のどこかに槍があるのなら、そこしかないだろうと思う」

 「ダンダロカ山と降魔の槍の噂が全く繋がらないというのも、却って匂います」

 「……」

 悟空は三人の会話を聞き流しながら、乾物店で買った干し芋を食べている。

 「……よし、食糧を仕入れてから、山へ向かおう」

 ダンダロカ山までは、プルシャプラの北東へ歩いてほぼ1日かかる。玄奘たちは山までの往復に必要なだけの食料を買い込み、プルシャプラを後にした。

 

 街を出て一時(2時間)ほど歩くと、平坦な道は徐々に起伏を増してきた。遠く見えていた山に少しずつ近づき、黒い影のように見えていたダンダロカ山が、その異様な姿を見せ始めていた。

 山の周辺と裾野一体は普通の山となんら変わったところもなく、緑の木々が生い茂っているのだが、8合目あたりから山頂にかけては、全く草木が生えておらず、赤茶けた地肌をむき出しにしていた。

 「なんだありゃあ……」

 悟浄はその異様な姿に驚き、少しの間立ち止まって山を見上げた。

 「あれは人の手で木を刈っているのでしょうか」

 八戒が玄奘に聞いた。

 「うむ。まるで生垣を刈り込んだように綺麗な境界線だな。何の意味があるのかはわからんが……」

 「あの山、頂上に神殿がある。そこにある御神体のせいだと思う」

 悟空が額に手をかざし、山の頂を見て言った。

 「うそだろ、見えるのか?」

 悟浄は悟空の視線の先に目を凝らしてみるが、遠すぎて山頂に何があるのか全く見えない。

 「御神体?それが降魔の槍なのか?」

 玄奘が悟空に聞いてみるが、悟空は首を振って答えた。

 「違う。でも……」

 「でも?」

 悟浄が問い返した時、悟空の目から大粒の涙が転がり落ちた。

 「えっ?お、おい、どうした?」

 「わからない……あの光を見たら、なぜか悲しくなった」

 悟空以外の全員が、それぞれに顔を見合わせた。その時、道の前方の岩陰から、一人の男が姿を現した。毛皮でできた腰巻を身につけ、辮髪を垂らしている。唐の隣国・吐蕃の国の男のようである。腰に下げた大刀に手を置き、日に焼けた顔でこちらを見ている。

 「おっ、やっと出てきたか」

 玄奘が少し嬉しそうな声で言った。

 「えっ?何?知り合い?」

 悟浄は見慣れない服装の男に警戒していたが、玄奘の言葉を聞いて間の抜けた声を上げた。

 「半時ほど前から我らを尾けていた者だ。もう一人後ろにいるぞ」

 八戒が後ろを振り返って言う。その言葉に悟浄が振り返ると、まさしくもう一人の吐蕃人が、玄奘たちの後ろから姿を現すところだった。こちらは前方の男よりやや小柄で、身長より少し長い槍を手にしている。その槍で、男が悟浄の手にしている槍を指した。

 「え?これ?この槍が何か……?」

 槍を持っていないほうの手で、男が手招きをして見せた。どうやら槍を渡せということらしい。

 「これをよこせって?なんでだ?」

 「それを降魔の槍だと思ってるようだな」

 玄奘が男の意図を読み取った。

 「ええ?これ贋物だぜ?」

 悟浄が戸惑っていると、槍の男がいきなり突いてきた。その突きを咄嗟に持っていた槍で受けた悟浄だが、突きの勢いに押されて尻餅を着いてしまった。

 「あっぶねえ!いきなりなにしやがんだてめえ!」

 怒りを爆発させ、立ち上がる勢いでそのまま槍の男に突っ込んでいく。

 「待て、おまえには無理だ!」

 玄奘が声を掛けたが、悟浄の勢いは止まらず、男に向かって槍を振り下ろしていた。槍の男はそれを受け流し、よろめいた悟浄の背を槍で薙ぎ払った。悟浄の背中が切り裂かれたと見えた次の瞬間、男の手から槍が消えていた。男は事態が飲み込めない様子で自分の掌を見つめていたが、それも一瞬で、真後ろに悟空が立っていることに気づくとすぐに飛びのいた。悟空の手には男の槍があった。頬にはまだ涙の跡が残っているが、感情の波は去ったようである。

 「あぶないわ」

 悟空は無表情のまま、わかりきったことを男に言う。振り向いた悟浄は、男の槍が悟空の手にあるのを見たが、何が起きたのかわからず、中途半端な姿勢で立ち尽くしている。 「見えたか?」

 玄奘が八戒に問いかけた。今の悟空の動きのことを言っているのだ。

 「いえ、全く……玄奘どの!」

 八戒が叫ぶと同時に玄奘が身を翻す。前方に立っていた男が大刀を抜いて玄奘たちの後ろから切りかかってきたのだ。玄奘は男の右側に体を避け、右の手刀で男の手から大刀を叩き落とす。よろめいた男の延髄に、今度は左の手刀を叩き込むと、男は前のめりに倒れ込み、動かなくなった。

 悟空に槍を奪われた男は、帯の中から五寸ほどの棒状の手裏剣を三本取り出すと、悟空に向かってそれを投げた。手裏剣を出してから投げるまでの動作は滑らかで、狙いを定めるような動きはなかったが、投げられた手裏剣は悟空の目、喉、そして心臓を、恐ろしいほど正確に狙っていた。それらがまさに悟空の体に吸い込まれるかに見えた次の瞬間、悟空の真横に立っていた木の幹に、三本の手裏剣が乾いた音を立てて突き刺さっていた。

 「まただ。あれも仙術なのか?」

 再び、玄奘が八戒に問う。

 「そうとしか……体は全く動いていないはずです」

 八戒は倒れた男の帯を剥ぎ取り、それで男の手足を縛っている。

 「仕方ないわ」

 悟空は、手裏剣を投げた男に向かって掌をかざした。男は得体の知れない方法で攻撃をかわす少女と、仲間が倒されたのを見て分が悪いと判断したのか、じりじりと後ずさりを始めていた。が、悟空が掌をかざした途端、動きが止まり、微動だにしなくなった。

 「と、止まった……?」

 悟浄は、目の前で繰り広げられためまぐるしい攻防に半ば呆然としていたが、男が突然動きを止めたのを見ると、少し距離を空けて後ろから回り込み、その顔を覗き込んだ。男は必死に体を動かそうとしているようで、苦しげな表情で額に汗を浮かべているが、指先ひとつ動かせないようである。

 「大丈夫、この縛は明日の朝まで解けないから」

 「お、おめえ……伝説の仙女のわりに存在感薄いと思ってたけど、やるときゃやるんだな」

 「フン」

 無表情のまま、鼻を鳴らす悟空であった。

 「それはそうと、こいつら一体なんなんだ?」

 悟浄は手にした槍の先で、立ったまま動きを止めた男の胴を小突いた。

 「服装から見て、吐蕃人だろうな。俺たちが降魔の槍を探していることを、あらかじめ知ってて尾けてきてたんだろう。少なくともプルシャプラに入った時には目をつけられてたはずだ」

 「俺たち以外にも、降魔の槍を探してる奴らがいるってことか。でも、太極門からひとっ飛びでプルシャプラへ来たのに、どうやって尾けてきたっていうんだ?」

 「おそらく、唐を出たときには吐蕃に情報が伝わってたんだろう。それでプルシャプラにあらかじめ人を遣って、待ち伏せしてたってとこだな」

 「予想以上に動きが早かったですな」

 八戒が、足元に転がした男の大刀を手に取り、その刃を見ながら呟いた。

 「え?おっさんは予想してたのか?」

 「どの国の者が現れるかはわからないが、いずれどこかで鉢合わせするだろうとは思っていた。吐蕃、天竺、ガンダーラ、あるいは我々と同じ唐の人間も槍を狙っている可能性はある」

 「秘密の計画じゃなかったのかよ……」

 「いくら秘密にしたところで、情報はどこかから漏れるものだ。宮殿の中に間者が潜り込んでいる可能性もある」

 「へ……おっそろしい世界だぜ」

 悟浄が首をすくめて見せた。

 「さて、そろそろ行くか」

 玄奘が足元に転がっていた荷物を拾って言った。

 「え?こいつらどうすんの?」

 「ここに置いていくだけだが?」

 「また追いかけてくるかもしれないぜ?」

 「その時はまた追い払えばいいだけの話だ」

 「大勢仲間連れて仕返しにきたらどうすんだよ?」

 「じゃあここで殺していくか?」

 「こ……そこまでは言ってねえけどさ……」

 「ふ、わかってるじゃないか。俺は曲がりなりにも坊主だからな」

 「……ちぇ」

 不満げに舌をならした悟浄だが、実のところ悟浄自身にも、この男たちをどうするべきか、いい考えは浮かばなかった。

 

 吐蕃の男たちをそのままに、玄奘一行はさらにダンダロカ山を目指して進んだ。山に近づくにつれ、悟空が言った神殿らしき建物が、頂上に見えてきた。その頃にはほとんど日が沈み、あたりが暗くなってきたので、玄奘たちは適当な場所を見つけて、夜を越すことにした。

 「あの光……神殿から出てるようだな。山頂に木が生えていないことと、何か関係がありそうだが……」

 「ええ。御神体が生きているという、悟空の言葉も気になります」

 野営の準備をしながら、玄奘と八戒が言葉を交わしている。星が見え始めた空に、ダンダロカ山の山頂がぼんやりとした光を放っているのが見えていた。そこへ、薪を探しに行っていた悟浄と悟空が戻ってきた。

 「さぁ、飯にしようぜ」

 両脇に抱えた薪の束を足元に下ろしながら、悟浄が言った。悟空はただ悟浄について行っただけのようで、何も手にしていない。悟浄が迷わないためか、あるいは槍を狙う者が再び現れた時の護衛としてついて行ったのだろう。悟空は自分と同じ血筋を持つ子孫である悟浄に、ある種の親近感を抱いているのかもしれない。

 「ちょっと貸して」

 悟浄が薪を並べていると、その中の細い枝を一本取り出し、空にかざした。その枝の先端を円を描くように回すと、そこから煙が立ち上り、やがて小さな炎が上がった。

 「へぇ、そんなこともできるのか。便利だな」

 悟浄が素直に感嘆する。八戒はプルシャプラで仕入れた干し肉を、薪の火であぶり、それを千切って皆に分けた。悟空だけはそれを受け取らず、懐から出した巾着袋の中から、どんぐりほどの大きさの丸薬を一粒取り出し、口の中に放り込んだ。

 「そんな丸薬ひとつで、体がもつのか?」

 悟浄が興味深そうに悟空の巾着を見ている。

 「あたしはこれで1ヶ月は大丈夫」

 「へぇ~、ちょっと俺にも分けてくれよ」

 「だめ」

 「いいじゃんかひとつくらい。どんな味がするんだ?」

 「悟浄には食べられない」

 「なんでだよ?ケチなこと言うなって」

 そのやり取りを見ていた八戒が口を挟む。

 「やめておいたほうがいい。それは仙丹の一種だ。普通の人間が口にすれば、間違いなく即死だぞ」

 「そ……マジかよ……」

 悟浄の顔から笑いが消え、悟空の巾着に向ける目の色が、興味から恐怖に変わった。

 「悟空と同じ血筋のおまえなら、それを食べて仙人になれるかもな」

 玄奘が笑う。

 「フン、冗談じゃねえ……」

 悟浄はそっぽを向いて干し肉を齧った。

 

 翌朝、地平線に日が昇ると同時に、玄奘たちは再びダンダロカ山に向けて出発した。吐蕃人の男たちが追ってくる気配もなく、一行は順調に歩を進め、やがてダンダロカ山の登山道の入り口へ辿り着いた。入り口には、巨大な石組みの門があり、門柱にはサンスクリット文字が刻まれている。

 「スーリヤ……天竺の神話に出てくる太陽神の名だ」

 玄奘が門柱に刻まれた文字を見て呟いた。それを聞いた八戒が玄奘に聞く。

 「山頂の神殿に祭られているのが、その太陽神なのでしょうか」

 「そう考えるのが妥当だな」

 太陽神の名が刻まれた門をくぐり、玄奘たちは登山道を登り始めた。道は比較的丁寧に整備されており、歩き易かった。やがて山の中腹に辿り着くと、そこには斜面を切り開いて作られた平らな土地があり、いくつかの住居と、祭壇らしき施設が設けられていた。山頂の神殿に祭られている神を崇拝する信者たちが暮らしているようだが、どこにも人影は見当たらない。石造りの舞台に木製の屋根がついた祭壇には、舞台に上る階段の両脇にかがり火が焚かれている。

 「この静けさ、妙だな」

 玄奘が、誰にともなく呟く。

 「歓迎されているようではなさそうですな」

 「嫌な感じがピリピリ伝わってくらあ」

 八戒と悟浄も、静寂の中に満ちた敵意を感じ取っていた。姿は見えないが、大勢の人間が警戒心をむき出しにして、玄奘たちを取り囲んでいるようだ。その不穏な空気の中を、玄奘は悠然と進み、祭壇の前に立った。蝋燭に火が灯り、香が焚かれた祭壇の上には、太陽神スーリヤの像が安置されている。その両手に大輪の蓮を持った立像である。

 「おっと、これは……先客がいたようだな」

 祭壇の右の柱に、二人の人間が縛り付けられていた。昨日、玄奘たちを襲ったあの吐蕃人の男たちだった。服はボロボロに破れ、身体のあちこちから血が滲んでいる。顔はもはや誰かわからなくなるほど腫れあがっていたが、服装と体格から、昨日の二人だとわかった。生きてはいるが、気を失っているようだ。

 「あ、昨日のあいつらか……ひでえな」

 悟浄が、玄奘の肩越しに吐蕃人たちを見て言った。

 「我々も、ああなる可能性があるということだ」

 八戒が表情を変えずに言う。

 いつの間にか、悟空が祭壇に上がり、吐蕃人たちの側に歩み寄っていた。懐から一枚の乾燥した木の葉を取り出すと、手の中で揉み砕き、二人の頭の上から振りかけた。そこに悟浄が駆け寄る。

 「お、おい、何やってんだ?」

 「これで、傷の治りが早くなる」

 「昨日こいつらに襲われたの忘れたのかよ」

 「関係ないわ」

 「関係なくねえだろ……お人好しかよ」

 悟空はさらに、二人を縛り付けている縄を解こうとした。

 「そこまでにしておきなさい」

 異国訛りのない唐の言葉で、悟空の行為を止める声がした。祭壇の影から、白い服を纏った男が現れた。中年を越えているであろうその男は、白髪交じりの顎鬚をたくわえ、頭髪は綺麗に剃りあげている。右手には、自身の身長より少し長い杖を持っている。

 「人を助けようとするのは良い心構えだが、その二人は我々の神聖な領域を汚した罪を償っているのだ」

 「あんたは?」

 玄奘が顎鬚の男に聞いた。

 「私はハジ。この地で太陽神スーリヤの御力を守り伝える者。その者たちのように、神の力を盗もうとする輩を退けるのも私の仕事だ」

 「神の力を盗む?」

 「ああ。だが私がいる限り、それは不可能。娘よ、彼らは神を冒涜する罪びと。解放すればそなたも罪びととなるのだぞ」

 「関係ないわ」

 悟空はハジの言葉を全く意に介することなく、そのまま二人の縄を解いていく。

 「お前も神の御力を恐れぬ者か……取り押さえよ!」

 ハジが言うと、祭壇の周りの物陰から数人、これも長い杖を持った男たちが躍り出た。顎鬚の男と同じように頭髪を剃り、身体に密着した黒い服を着ている。訓練された俊敏な動きで悟空と悟浄を取り囲み、その長い杖で取り押さえようとした。しかし、その姿勢のまま、男たちは微動だにしなくなり、手にした杖を次々に取り落とした。男たちの襲撃に身構えた悟浄は、動きを止めた男たちを見て唖然としている。

 「悟空、またお前の仙術か?」

 その問いに答えず、悟空は縄を解く手を動かし続けた。

 「む……邪教の技を使うか。ならば娘とて容赦はせぬぞ」

 ハジは懐から数珠を取り出して左手に掛け、顔の正面で掌を立てると、口元で小さく何かの経文を唱え始めた。すると、吐蕃人の縄と解いていた悟空の手がぴたりと止まった。悟空が手を開いて見ると、その手のひらの皮膚が赤く腫れあがり、煙が立ち上っている。相当な熱を帯びているようで、所々皮膚が焦げ、あたりに肉の焼ける臭いが漂い始めた。 「お、おい悟空、手が……」

 「太陽神スーリヤの力により、お前の手に灼熱を生じさせた。その手はもう使い物になるまい」

 だが悟空は、焼けた手のひらを見ても眉ひとつ動かさず、煙を上げるその手に息を吹きかけた。青白く光る息が手のひらにかかると、みるみる凍り付いていき、やがて分厚い霜で覆われた。そして、その両手を胸の前で叩き合わせると、ばらばらと音を立てて霜が砕け散り、その下から現れた悟空の手は、何事もなかったように無傷の状態に戻っていた。同時に、悟空の術が解けたのか、周りで固まっていた男たちが、よろめいてその場に倒れこんだ。自由になった男たちは体勢を立て直し、再び悟空に迫った。今しがた悟空の不思議な術を体験した恐怖からか、微塵も容赦のない勢いで襲い掛かる。

 「年端もいかない娘に、大の男がよってたかって襲い掛かるのは感心しねえな」

 玄奘が男たちの前に立ちはだかった。八戒はすでに一人、男を倒している。

 「その者たちも、我らが神に仇なす輩だ。容赦はいらぬ」

 ハジに命じられた男たちは、すぐに玄奘、八戒に目標を移して襲い掛かった。玄奘と八戒は、素手で男たちの杖をことごとく受け流し、ほとんど一撃で男たちを倒していった。 「大人数のわりには、ちょっと物足りなかったな」

 玄奘と八戒の足元に男たちが倒れ、完全に気を失ったり、うめき声を上げてもがいたりしている。倒れていた男たちの中の一人が、頭を抑えながら立ち上がりかけたが、悟浄が槍の柄で打ちつけ、昏倒させた。悟空は吐蕃人の二人を解放し、床に寝かせていた。手下たちが短時間で倒されたのを見ても、顎鬚の男に慌てた様子はない。

 「愚かな……偉大なる太陽神に逆らおうというのか」

 「これだけやっておいて言うのもなんだが、俺たちは別にあんた達と事を構えようってつもりはないんだ。ただ、降魔の槍について聞きたいだけでね」

 「降魔の槍……やはりおまえたちもか。そこの二人も降魔の槍を求めてここへ来た。だからそうなったのだ」

 ハジは吐蕃人の二人を杖で指した。

 「どこで聞いたのかは知らんが、降魔の槍などというものはここにはない。その者達は私の言葉を信じようとせず、祭壇を勝手に物色し始めたのだ。神聖なる祭壇を汚す者に相応の罰を受けてもらったまでのこと。お前たちもこれから罰を受けることになる」

 玄奘と八戒は顔を見合わせた。

 「どういうことだ?恵岸が俺たちに偽の情報を……?」

 「まさか、恵岸様がそんな……」

 「いや、恵岸のことだ、わからんぞ……あるいはヤツも偽の情報を掴まされたのか、それとも何か裏があるのか……」

 「何を相談しようと、お前たちが国へ帰ることはすでに叶わぬ」

 ハジは、右手の杖を高く掲げ、再び左手を顔の前に構えて経文を唱え始めた。

 「ところであんた、唐の人間のようだが、なんでこんなところで神官みたいなことをやってるんだ?」

 「お前たちに聞かせる必要はない。そこでひからびて死ぬがよい

 玄奘の問いに答えず、ハジは経文の詠唱を続けた。

 「うっ……あっつ……なんだこりゃ」

 悟浄が苦悶の声を上げた。玄奘、八戒もまた、尋常でない暑さを感じていた。まるで炎天下の砂漠に放り出されたような暑さが、玄奘たちの体を襲っていた。さきほど悟空に向けて発したのと同じように、ハジの唱える経文の力が働いているようだ。

 「吐蕃人の二人も、この術にやられたようですな……」

 八戒が大量の汗を滴らせている。

 「だろうな。これじゃまともに戦えないぞ」

 玄奘も、さすがに暑さで顔が紅潮している。

 「お、おい悟空、なんとかならねえのか?」

 悟浄が汗だくで足元をふらつかせながら言ったが、悟空は涼しい顔で吐蕃人の二人をひきずり、舞台の外へ運び出そうとしていた。

 「ちょっと待ってて」

 舞台の端まで行くと、二人を無造作に舞台の下に落とし、悟浄たちのところへ引き返してきた。右手の人差指と中指を立て、口元に当てると、ごく短い呪文を唱える。口元に当てた指を悟浄、玄奘、八戒、それぞれに向けて、一文字を描くように空中をなぞった。すると、肌を焼くような暑さが嘘のように消え去っていた。

 「うほーっ、涼しい!助かったぜ」

 悟浄が暑さから解放され、歓喜の声を上げる。

 「あなたたちは下に降りてて」

 悟空は玄奘たちに向かって静かに言った。

 「そのほうがよさそうだな。おれたちじゃ役に立てん戦いのようだ」

 玄奘は八戒、悟浄を促して舞台から降りた。

 「邪教の術で神の業を妨げるとは……娘、お前、人ではないな」

 「たぶん、そう」

 悟空が無表情に答える。

 「ならば人にあらぬ者にふさわしい罰を与えよう」

 ハジは杖を両手で持ち、胸の高さで水平に構えると、先ほどまでとは異なった言語で、低く力強い詠唱を始めた。悟空の周りの空間が、球形に切り取られたように見える。球形の中に発生した熱で、光が歪んでいるのだ。悟空の身体はすさまじい熱にさらされているはずだが、その顔はあいかわらず無表情である。

 「無駄よ」

 首から提げている独鈷を外し、懐から取り出すと、手のひらに載せて頭上にかざした

 「ヴァジュラ」

 悟空が一言唱えると、手のひらの独鈷は瞬時にその大きさを増し、悟空の身長を越える長さの槍となった。その槍を構え、経文を唱え続けるハジめがけて投げつける。槍はハジの顔面めがけて真っ直ぐに飛んだ。ハジが思わず槍を避けると、その背後にあったスーリヤ像の胸に、悟空の槍が深々と突き刺さった。突き立った槍の根元からヒビが入り、それが見る間に広がっていく。スーリヤ像は崩壊の圧力に耐え切れなくなり、貫通した槍を残して粉々に砕け散った。

 「お……おお!なんという……」

 ハジは、神像が破壊されたのを目の当たりにし、驚愕の余り体を震わせた。

 「なんということを……ス、スーリヤ……我らの神が……」

 「ここに神なんていない。あなたは錬玉の力を使っていただけ」

 悟空は冷たく言い放つ。ハジの呆然とした表情が、やがて目を見開いた驚愕の表情へと変わってゆく。その視線は、さっきまで神像があった場所に突き立った独鈷に釘付けになっていた。

 「錬玉の名を知っているとは……そしてこの独鈷……」

 その視線がゆっくりと悟空に移った。

 「ではお前が……悟空なのか?あの、伝説の……」

 「そうだよ、こいつが伝説の仙女、悟空さんだよ。さっきからおれこいつのこと悟空って呼んでたろ?」

 悟浄が得意げな顔でハジを見た。

 「まさかそのような少女の姿とは……」

 ハジの視線がふと、悟空の頭に嵌められた緊箍児に移った。

 「そうか、緊箍児を……」

 何か納得がいったような表情で呟き、杖を捨ててその場に座り込んだ。そして、ダンダロカ山と自身の半生について語り始めた。

 

 ハジは、玄奘の言うとおり、元は唐から遊学に訪れた劉奇という学僧であった。プルシャプラで達磨大師の教えについて学ぶうち、ダンダロカ山の話を聞き、実際に訪れたところ、先代のハジ――神官は代々ハジを名乗った――に才能を見出され、ダンダロカ山の山頂に輝く光の由来と、その力の秘密を伝授されたのである。

 

 神官によると、山頂の光は錬玉と呼ばれる気の塊だという。500年前に達磨大師の教えが広まった時、その影響力を恐れたガンダーラの皇帝が、達磨の元に集まった者たちからなる教団を殲滅するために、軍隊を差し向けた。達磨の弟子だった悟空は、その軍隊を迎え撃とうと錬玉を作り上げたが、達磨は争いと殺生を嫌い、悟空を両界山に封じた後、自らの命と引き換えに、錬玉を山頂の神殿に封じた。

 

 しかし、達磨の技をもってしても、錬玉の力を完全に封じることは出来ず、それを悪用しようと企む者たちにたびたび狙われた。そのため、達磨の弟子たちが祭殿にスーリヤ像を安置し、媒介として機能するように術を施した。さらに、スーリヤ像を媒介として錬玉の力を利用するために、ある特殊な手続きを必要とする仕組みを作った。そして、達磨の教えに則って選ばれた者のみが、その秘儀を代々伝えてきたのである。

 

 神官の人柄に惹かれた劉奇は、秘儀を継ぐことを決意し、ハジとしてダンダロカ山で生涯を送ることになったのであった。

 

 「ふ……まさか私の代でこの仕事が終わることになるとはな」

 しみじみとした感慨を滲ませ、ハジが呟いた。

 「なあ、それで降魔の槍はどうするんだ?」

 ハジの話に興味のない悟浄が、しびれを切らして玄奘に尋ねた。

 玄奘の代わりに答えたのはハジだった。

 「おまえたちが探している降魔の槍は、そこにある」

 その指差すところにあるのは、壁に突き立った悟空の独鈷である。玄奘は、その意味するところを一瞬理解できず、わずかな沈黙の後、ハジに確認した。

 「これが、降魔の槍?」

 「その独鈷は、達磨大師太上老君から授かり、それを入滅の直前、悟空に託したと聞いている。独鈷を知らない者が、形を見て槍と呼んだのが、そのまま伝説として残ったのだろう」

 「そうなのか?」

 玄奘が悟空に聞く。

 「……覚えてないわ」

 本当に覚えていないのか、覚えていないふりをしているのか、悟空の表情からは読みとれない。

 「どっちにしろ、降魔の槍は確かにダンダロカ山にあったってわけだ」

 玄奘がため息混じりに呟いた。

 「何言ってんだよ?わざわざこんなところまで来なくても、最初から悟空が持ってたんじゃねえか」

 「しかし、ここへ来なければ、悟空の独鈷が降魔の槍だということはわからなかっただろう」

 八戒が悟浄の言葉に答えた。

 「そりゃそうだけどよ……」

 悟浄は納得のいかない様子で、口をヘの字に曲げている。

 「恵岸のやつがここまで知ってたっていうなら、あいつを褒めてやりたいよ」

 玄奘が苦笑いしながら八戒に言った。八戒は黙って微笑んでいる。

 「悟空、ぜひとも頼みたいことがあるのだが……」

 ハジ――劉奇が口を開いた。

 「スーリヤの像が破壊された今、錬玉の力はまた邪な者たちを引き寄せるかもしれん。あれを、人の手の届かぬところへやってくれぬか。かつて達磨の弟子たちがスーリヤ像に施した技術は、すでに伝える者がおらぬのだ」

 「……わかった」

 一言答えると、悟空は壁に突き刺さった独鈷を引き抜く。小声で短い呪文を唱えると、独鈷は再び手のひらに収まる大きさになった。それを懐に納め、石舞台から下りると、山頂に向かう道を歩き出した。劉奇と玄奘たちもそれに続く。

 しばらく山道を行くと、木々の向こうに茶色の山肌が見えた。遠目からも見えていたように、山頂付近は全く木が生えていない。しかも、何かで切ったように綺麗な境界線を描いている。悟空は、木が途切れる手前で立ち止まった。

 「ここから先は入らないほうがいい」

 「どうなるんだ?」

 玄奘が問いかけると、変わりに劉奇が答えた。

 「この先は、達磨大師が錬玉を封じた結界の内側に入る。錬玉の力はこの結界内ではむき出しの状態だ。人が入ればたちまち焼け死ぬ」

 「だけど、これだけ近づいてるのに、熱くもなんともないぜ?」

 悟浄が結界との境目にギリギリまで近づいている。

 「熱を完全に遮断してるんだろうが……どうやったらそんな結界が作れるのか、想像もつかんな。しかも、何の痕跡も残ってないぞ。普通は結界を作るときに何がしかの式なり印なりを使うもんだが……」

 玄奘が結界の境界線を見ながら、しきりに感心している。悟空はすでに結界内に踏み込み、山頂の神殿に向かって歩いていた。

 「うわぁっちっ!」

 突然、悟浄が大きな声を上げた。うっかり結界の内側に手が入ってしまったらしい。左手を振って、耳たぶをつまんでいる。

 「こりゃ熱いなんてもんじゃないぜ……窯の中に手え突っ込んだみてえだ。あいつ、平気なのか?」

 悟空の後姿は見る間に小さくなっていく。

 

 山頂の神殿は、大人二十人が楽に乗れる大きさの平らな石を、四つの直方体が柱となって支えている形である。柱の下にも、上に乗っているのと同じ大きさの石が敷いてある。神殿と呼ぶにはあまりにも単純な造りだが、これだけの巨石を、どのような力が加工し、積み上げたのかと思わせる重量感がある。装飾も彫刻もなく、冷徹なほど真っ直ぐに裁断された石が、一分の隙もなくぴったりと組み合わされている様は、それだけで近寄りがたい荘厳さを生み出していた。

 その無愛想な神殿の前に、悟空は立った。神殿の中には、ちょうど神殿に収まる大きさの、白く輝く球体がある。かつて悟空が生み出した、錬玉と呼ばれる気の塊である。すでに想像を絶する熱にさらされているはずの悟空だが、その顔にはどんな苦痛の色も浮かんではいない。その無表情は、むしろあらゆる感情を内包しているようでもある。

 悟空はおもむろに、頭に嵌った緊箍児を外し、足元に置いた。一瞬、悟空の身体が白い閃光を発し、次の瞬間、悟空の身体は少女のそれから、大人の姿に変わっていた。はちきれそうな重量感を持った豊満な胸、挑発的な曲線を描いて張り出した腰……年の頃は三十前後であろう、成熟した肢体を持つ女が、長い髪を背中まで垂らしている。

 「フゥ……またこの姿に戻る時が来るなんてね……」

 その声もまた、妖艶な大人の女のものに変わっている。ゆっくりと足を踏み出し、悟空は神殿の中へ入っていく。そのまま錬玉の中心まで進んで行くと、胸の前で合掌し、瞼を閉じた。その口元は小さく動きつつ、詠唱を始めている。

 その状態で、およそ半時ほど過ぎただろうか。ふいに悟空の瞼が開かれた。

 「師匠、ようやくあたしの過ちを天に返す時が来たよ」

 そう呟くと、合掌した手をゆっくりと頭上に持ち上げつつ両腕を開き、天を仰いだ。幼子の手を離れた風船のように、錬玉がすっと持ち上がり、神殿の天井をすり抜けて上昇する。その下辺が神殿の天井から離れると、上昇のスピードは一気に加速し、錬玉はあっという間にはるか上空へと消えていった。悟空はしばらくそのまま上空を見上げていたが、やがて神殿から下りると、地面に置いた緊箍児を拾い、再びその頭に嵌めた。さっきと同じように悟空の身体が閃光に包まれ、光が消えると悟空の身体は元の少女の姿に戻っていた。同時に、背後の神殿は足元からサラサラと崩れ始め、見る間にその姿を白砂の山へと変えたのである。