心は空気で出来ている

空気を読むな、呼吸しろ。

エリア6(シックス) -2-

 目覚め

 

 あれから、怪しいメールは届かない。留守の間に知らないものが部屋に増えていたこともない。何事もなく、日常が過ぎていく。ただ、あの模様が描かれた紙片は、モニタの横に貼り付けてある。この模様なのか文字なのかわからないものには、確かに何か意味がある。しかしおれにはそれが何か思い出せない。知らないのではなく、思い出せないのだ。

 今日は仕事が定時で終わったので、久しぶりに自炊することにした。メニューはカレーだ。寒い時期は体が暖まるし、作り置きしておける。鍋一杯に作るので、今晩から3日はカレーが続くことになる。ニンジン、ジャガイモ、タマネギ、豚コマ。具は小さいほうが好みだ。まず、ニンジンを洗って・・・ニンジンが。ニンジンを掴んでいる。ニンジンを掴んでいる。いつの間に?

 ニンジンを手に取ろうとした。手に取ろうとしただけで、実際にはまだ手を動かしてはいなかった。だが、ニンジンは今、おれの手に握られている。いつ?いつおれはニンジンを掴んだ?そのことに気づいた瞬間、思わずニンジンを手放していた。おれの手を離れたニンジンは、引力に引かれて床に落ちていく。いけない。ニンジンを落としたら汚れてしまう。

 ニンジンは落ちなかった。おれのひざの高さで止まっている。ニンジンが、宙に浮いている。おれはしばらくの間、その浮いたニンジンを、呆然と眺めていた。はっと我に返ると同時に、ニンジンは床に落ちて、ごとん、と鈍い音を立てた。何だ?何が起きた?ニンジンが勝手におれの手に入ってきて、宙に浮いて、落ちた。それはわかる。それはわかるんだが、一体何が起きている?

 床に落ちたニンジンを拾って、それを眺めながらしばらくの間考えた結果、これは念力ではないのか?という仮説を立てることにした。その仮説が正しいかどうかは、実際に試してみればわかる。おれはあらためてニンジンをまな板の上に置き、念じた。動け。動け。浮け。

 ニンジンはぴくりとも動かない。仮説は間違っていたのか?念力でなければ、なぜ勝手におれの手に入ってきた?なぜ浮いた?おれがニンジンを取ろうと思った瞬間に・・・そうだ、単に動けと思うだけでは、ニンジンもどう動いていいかわからないのだ。いや、ニンジンが動くのではなく、おれがニンジンを動かすのだ。ニンジンはおれの一部なのだ。

 再びニンジンを見た。ニンジンを手に・・・掴んだ。ニンジンは動いた。掴もうと「思った」のではない。意識すると同時に掴んだのだ。普段、自分の体を動かすのに、いちいち動けと念じるやつはいない。それと同じ感覚だ。ニンジンはおれの手足と同じように、まさしく意のままに動く。宙を舞い、回転し、止まる。ニンジンはおれであり、おれはニンジンなのだ。

 気がつくと、30分近くもニンジンで遊んでいた。何か、とてつもなく面白いおもちゃを手に入れたような興奮。と同時に、おれは確信していた。あの文字のような、模様のような形の線。夢にまで出てきたあの印。あれが念力を覚醒させたのだ。どういう理屈でかはわからないが、おれは直感的にそう確信していた。

 そうなると、やはりあのメールと紙片がどこから来たのかが気になる。一体誰が、何の目的で・・・目的はおれの念力を覚醒させるためか?しかしそれもまたなぜ?なぜおれが念力を手に入れる必要がある?おれが念力を手に入れることで、誰か得をするやつがいるのか?この力を利用して何かを企んでいるのか?もちろん、こんな便利な能力はいろいろと使い道があるだろうが・・・。

 それから数日、おれは謎の人物から再びメールが来るのではないか、何か接触があるのではないかと、不安と期待の入り混じった気持ちで過ごした。どこかで念力を使いたくて仕方なかったが、誰かが意図的にこの能力を覚醒させたということを考えると、うかつに使っていいものかどうか迷った。ヘタに使うと何かペナルティがあるのではないか?あるいはこの能力は期限付きなのではないか?使える回数に限りがあるのではないか?などと、いろんな考えが浮かんで、簡単に使う気にはなれなかったのだ。

 1週間が経ち、10日を過ぎても、誰からも何の音沙汰もなかった。念力を使いたいという欲求は、我慢の限界に近づいていた。同時に、見知らぬ誰かの企みに対する不安も薄れてきていた。何も言ってこないなら、おれの好きなように使ってもいいのだろう。もし使用回数が限られていても、それはそれで構わない。期間が限られているのなら、ますます使わなければもったいないではないか。明日こそ、この能力をどこかでこっそり使ってみよう。