心は空気で出来ている

空気を読むな、呼吸しろ。

エリア6(シックス) -1-

 兆し

 

 今日は午後から随分冷え込んでいる。仕事から帰るとすぐにヒーターを入れ、スウェットに着替えた。パソコンの電源を入れる。とりあえずテレビをつけるが、画面はほとんど見ずに音を聞く。夕方のニュース番組をやっている。汚職、殺人、偽装、事故。どこかの川で鯉幟を洗っている。ダウンを着た気象予報士が、鼻を赤くしながら中継している。後ろに見えているのは菜の花畑だ。この寒さと、暖かそうな黄色い花の組み合わせが奇妙だ。

 コンビニで買ってきたパンをかじりながら、メールチェック。スパムだらけのメールボックス。以前はうんざりしていたが、もう麻痺してしまった。ほとんどのメールがフィルタにかかってゴミ箱へ直行だ。それでも、必要なメールがゴミ箱に入ってないかどうか、一応チェックする。海外から来るED薬だの、投資だの、違法ソフトだのといったスパムに、ときおり日本語の出会い系スパムが混じっている。サブジェクトが巧妙で、思わず開いて中身を確認してしまうものもある。

 そのメールも、そんなスパムのうちの一通だった。それをスパムを呼べるならの話だが……。まるでおれに宛てたようなメールの文面。いや、おれに宛てたどころか、間違いなくおれに向けた文面が書いてある。

 「モニタの右側に置いてある電卓の下にはさんだ紙を見て下さい」

 17インチの液晶モニタの右脇に、少し大きめの電卓が置いてある。その電卓を手に取る前に、おれはしばらく考えた。誰かがこの部屋に侵入して、下調べをしたうえで、こんなメールを送ってきたのだろうか。そうでもなければ、モニタの右側にある電卓を指定してくるなんてことがありうるのか。

 まず預金通帳を確認した。印鑑も。盗られていない。部屋に現金は置かない。いつも財布に入れて持ち歩いてる。保険証、年金手帳、本棚、引き出しの中、全部調べた。何も盗られていない。パソコンのデータはどうだろう。これはUSBメモリかCDにでもコピーされて持ってかれたらわからない。しかし、盗まれて困るほどの重要なデータなど、おれのパソコンには入ってない。盗まれて困るほど高価なものも、おれの部屋には置いてない。

 ひとしきり、部屋の中をゴソゴソとかきまわした。狭い部屋だ、せいぜい10分くらいで終わってしまう。あらためてパソコンの前に座り、モニタの右脇にある電卓に手を伸ばした。電卓の下には、電気料金の通知書が一枚ある。これは昨日と変わらない。本当にこの電卓の下に何かあるのだろうか。

 電卓を右手で掴んで、ゆっくりと持ち上げる。すると、電気料金の通知書の上に、3cm四方ほどの小さな紙片があった。自分で置いた記憶はない。電卓を横に置いて、その紙片をつまみ上げ、表に書いてあるものを見た。文字のような、模様のような、何かクネクネした線のかたまり。この模様にも見覚えがない。

 この文字なのか模様なのかわからないものの中に、何かヒントがあるのだろうか。立体視すると何かが浮かびあがるとか・・・いや、とてもそんな風には見えない。文字を重ねて書いてあるのだろうか。そうでもないらしい。一体この紙と模様は何だ。紙をひっくり返したり、斜めから見たり、透かしたり、いろいろやってみたが、さっぱりわからない。

 スパムに混じっておれ宛に送られたメール。そして見たこともない形の線が描かれた紙切れ。誰がメールを送ったのか、誰がこの紙切れをここに置いたのか、誰がおれの部屋に忍び込んだのか・・・いくら考えても、全く身に覚えがない。いたずらだとしても、そんないたずらをするようなやつは、おれの数少ない知人の中にはいない。気味が悪いが、これといって実害があったわけでもない。とりあえず、無視して寝ることにした。

 堤防の上を歩いている。ここに来るのは久しぶりだ。実家にいる頃は、暇になるとここへ来てぶらぶら散歩したものだ。河川敷はグラウンドや公園が整備されていて、歩きやすい環境が整っている。手付かずの藪や森も残っていて、鳥がたくさんやってくる。今は夕暮れ時で、河はオレンジ色に輝いている。他に歩いている人はいない。

 堤防の上からグラウンドを見ると、芝の生えていない地面になにやら模様みたいな線が描かれている。どこかの子供がいたずらしたのだろうか。どことなく文字のようにも見える。どこかで見たような気がするが、なかなか思い出せない。ずいぶん昔に見たような気がするが・・・いつのことだったか・・・まだ物心つく前のような、自分の中の一番古い記憶よりもさらに古い記憶に埋もれているのかもしれない。

 堤防を下りていくと、グラウンドだった場所は池になっていた。石垣で囲まれた小さな池。子供の頃は、よくここへ友達と釣りに来た。甘い匂いのする練り餌を作って、日が暮れるまで釣りをした。餌を魚がつついた時の浮きの動き。針にかかった魚の動きが竿を伝って、手に心地よい振動を与える。にごった水面下をひらめく銀色の鱗。その鈍い銀色の光が、突然何かを思い出させた。あの線の形、あの模様は・・・

 目が覚めると、夢の中で思い出したはずのことは、全て忘れてしまっていた。