心は空気で出来ている

空気を読むな、呼吸しろ。

西遊奇 -5-

第五章

 

 悟浄が旅に加わって、すでに二ヶ月が過ぎていた。結局、ほとんど玄奘一行の一員のような顔をして、行動を共にしている。ときおり、玄奘に組み手を仕掛けては叩き伏せられていた。ただ、最初に悟浄自身が言ったとおり、食料などは全て自前でどこからか調達していた。そこは悟浄なりのプライドがあるようだ。

 道は徐々に険しさを増し、やがて急峻な山岳地帯に入っていた。悟空が封印されているとされる両界山に近づいているのである。両界山は、唐の国と吐蕃の国を隔てる広大な山岳地帯の中にある。この山岳地帯には、平野部からほとんど隔絶された集落が点在している。玄奘たちはそういった集落の一つを目指していた。

 大小の岩が折り重なって、長い斜面を作っている。それを道と呼べるならの話だが、もともと川が流れていた谷間に崖崩れが起き、川が埋まってできた道のようである。その、道と呼ぶには険しすぎる道を、玄奘たちは登っていた。

 

 「八戒さんよぉ……ほんとに……こんな不便な場所に、人が住んでるのか?」

 息を弾ませながら、悟浄が聞く。山岳地帯に入ってからは、馬を捨てていた。今は布袋に詰めた、わずかな荷物を持っているだけである。玄奘たちも、道がかなり険しくなってきたところでロバを放し、ロバに乗せていた荷物は分担して運んでいる。しかし、二人ともこの坂で息を乱している様子はない。

 「このあたりは、かつて出家した道士たちが集まる修行場だったのだ。その道士たちが集落を形成して村ができた。俗世を離れるための場所だったのだから、不便なのも無理はない」

 「ふぅん……八戒さんはなんでもご存知で」

 自分から質問しておきながら、八戒の説明には全く興味がなさそうな悟浄だった。

 「んで、その太極門とかいう村に、悟空ってやつが住んでるのかい?」

 「いや、太極門は両界山の入り口だ。悟空は両界山の頂上近くにいる」

 「入り口……って、今まで登ってきたのは何だったんだよ?」

 「今まで登ってきたのも両界山だが、まだ2合目あたりだ。頂上には太極門を通ってしか行けないのだ。それ以外の道から頂上に向かっても、悟空のいる場所にはたどり着けない。結界があるからな」

 「まだ2合目って……なんだよそりゃ……冗談きついぜ」

 よろよろとその場にへたりこむ悟浄に、玄奘が追い討ちをかける。

 「ちなみに、天竺へ行くまでに、この程度の山は5〜6回越えることになるぞ」

 「……もういいよ。先のことはいいから、おれはとりあえず村で休む」

 「好きにするさ。おまえの旅なんだからな」

 「ちぇ……言い方が冷てえよ師匠は」

 悟浄は玄奘のことを勝手に師匠と呼んでいる。

 「ここから太極門までは一本道だ。先に行ってるぞ」

 悟浄を後にして、玄奘と八戒の二人は先に歩いていく。

 ふと八戒が立ち止まり、思い出したように悟浄を振り返って言った。

 「念のために言っておくが、ここよりキツイ山は天竺までにあと2箇所あるぞ」

 「は……なんで今それを言うかね?ったく、性格悪いぜ」

 玄奘と八戒は笑いながら、太極門に向かって歩を進めた。

 

 木々がまばらになってきた道の先に、切り立った崖と、崖にへばりつくように造られたいくつもの楼閣が見えた。木の柱と煉瓦を組み合わせた土台の上に作られた、強風が吹けば飛ばされそうな、簡素な楼閣である。太極門という名のついた集落だが、門らしきものは見当たらない。入り口を示す目印のようなものすらなく、気がつくと集落に入り込んでいたという感じである。ただでさえ険しい山中で、平地などは皆無に等しいのだが、集落の中心とでも言える位置に、ごくわずかな面積だが、岩を削って平らに均された場所がひとつだけあった。大人が十人ほど手を繋いで、輪を作った程度の広さである。その中央には、綺麗な円形の穴がある。穴といっても、周りの床より一段低くなっている程度の深さで、全体の3分の1ほどの面積である。底には陰陽太極図が描かれていた。岩の表面の削り方を変えることで、太極図の白と黒が表されている。

 その太極図の周辺や、集落のあちこちに人影が見えた。高い岩の上や、木の枝に座して瞑想に耽っている者、木材を担いで、崖に作られた階段を上っていく者、足元の不安定な岩場で、拳法の組み手をしている者など。そのほとんどが男で、稀に女の姿も見えたが、みな中年以上のようで、子供は全くいないようである。集落とはいっても、ここに住むのは道教の修行をする道士のみで、子を儲けて生活を継いでゆくような類の集落ではないようだ。

 「思ったより退屈そうなところだな。あの太極図以外は」

 玄奘が周りを見渡しながら呟いた。

 「やはり感じますか。あれは並大抵の結界ではありませんな」

 「おれが知ってる“結界”ってものからすると、ありゃ結界と呼ぶには少々大掛かりすぎる代物だ。次元が違うな」

 「ええ、確かにそうかもしれません……ちょっと話を聞いてみますか」

 そう言うと、八戒は岩の上で瞑想をしている女に近づき、話しかけた。この集落で修行している者の中では、かなり若いと言っていい。おそらく、まだ30歳は超えていないだろう。色白で、美人と言っても差し支えない顔立ちは、この集落には似つかわしくない容姿である。女は急な訪問者に驚くでもなく、親切そうな笑顔を見せて応対している。少しの間、言葉を交わしたところで、太極門を取り囲む崖のうちのひとつを指差した。八戒はその指の先にあるものを確認し、女に礼を言って戻ってきた。

 「太極門の鍵を持つ長老が、あの崖の上の楼閣にいるそうです」

 女が指し示していた場所を、八戒が指差した。集落を取り囲む断崖の中でも、ひときわ高くそびえる絶壁の頂上に、唯一、柱や外壁が赤く塗られた楼閣が見える。そこへ上るための階段はなく、細い梯子が一本、崖の下から真っ直ぐに伸びているだけだった。

 「あれか……いかにも特別って感じだな」

 「ええ。あの梯子を上る以外、長老に会う手段はないそうです」

 「だろうな。じゃあ早速、その長老に会いに行くとするか」

 「そうしましょう。ところで玄奘どの。我々の行く先が天竺ではないことを、悟浄には伝えておかなくてよいのですか?」

 「ああ、それなんだが……あいつは唐の国を離れたことがないようだから、天竺がどんな国か知らないはずだ。ガンダーラへ連れて行っても、そこが天竺じゃないことに気づかないんじゃないか?俺たちの行く先がどこだろうと、あいつにとっちゃ関係ないことだしな。わざわざ教える必要もないだろう」

 「それもそうですな」

 「だろ?」

 玄奘と八戒は、赤い楼閣を頂く絶壁に向かって歩き出した。

 

 それからしばらくして、悟浄が太極門にたどり着いた。あたりを見回しながらうろうろしていたが、やがて太極図のある場所まで来ると、先ほど八戒が話を聞いていた女に声を掛けた。

 「お姉さん、ちょっといいかな?」

 「ええ、いいわよ?」

 「ここに長髪のでっかい男と、髪の短い中年男の二人組が来なかったかい?」

 「ああ、ちょっと前に来たわね。あの楼閣へ向かったわ」

 女は玄奘たちが向かった、赤い楼閣を指差した。

 女の指差す先を目で追い、その目線が崖の梯子を辿って赤い楼閣を見つけると、悟浄の眼は大きく見開かれた。

 「ええ!?あれかよ?あんなとこまで梯子一本で登れってのか?冗談じゃ……でも、あいつらなら登れるかもな。俺は付き合わねえけど」

 「お連れさん?」

 「え?うん、まあそんなもんかな。ところでお姉さん、ここに悟空ってやつがいるらしいけど、何者なんだ?」

 「悟空ですか。八百年生きていると言われている、伝説的な仙女ですよ。今から五百年ほど前に、達磨大師がこの両界山の結界内に幽閉したそうです」

 「おいおい、八百年も生きてる仙女って……そんなの、まるでおとぎ話じゃねえか。あいつら、そんな話を信じてここまで来たってのか?しかもその悟空を連れ出して、天竺まで行くって言うんだろ?まともじゃねえな」

 「悟空はちゃんとこの両界山にいるのよ。玄奘さんは、悟空を両界山から連れ出すための道具を持ってるわ。唐の皇帝に代々伝わるもので、彼は皇帝から直接依頼を受けて、その道具を預かってきたのよ」

 「こ、皇帝から?あいつら一体何者なんだ?」

 「ふふ……あなたは彼らが何者かも知らずに一緒にいるの?」

 女は口に手をあて、いたずらっぽい眼差しで悟浄を見た。

 「いや、知ってることは知ってるんだけどさ……ところでお姉さんこそ、なんでそんなことまで知ってるんだ?もともと師匠たちと知り合いなのか?」

 「ううん、知り合いってわけじゃないけど、彼らのことは知ってたわ」

 「へえ、そんな有名人だったのか……」

 「長安ではかなり有名でしょうね。妖怪に苦しめられている人たちは、彼らが持ち帰るはずの降魔の槍を心待ちにしているだろうから」

 「それでこんな辺鄙なところに住んでるお姉さんにも知られてるわけだ」

 「あなたは彼らと一緒に旅をする仲間なんでしょう?なのに、彼らのことはほとんど知らないのね」

 「え?ああ……たまたま一緒にいるだけで、仲間っていうほどのもんじゃ……」

 「彼らと一緒にここへやってきたということは、あなたはもう彼らの仲間なのよ」

 「そ、そう……なのか?」

 「ええ」

 女は屈託のない笑みを浮かべて答えた。女の持つ独特な雰囲気のせいか、悟浄は彼女の言葉に不思議な信頼感を覚え、初めは突拍子もないと感じていた話を、信じてもいいような気がしていた。

 「あんた、名前はなんていうんだ?」

 「珪よ」

 「珪さんね……俺は悟浄っていうんだ。あいつらが戻ってくるまで、この辺りで休ませてもらうよ」

 「どうぞ、ゆっくり休んで、悟浄さん。その石段を登ったところに水場があるわ」

 「ああ、ありがとう。それじゃな」

 悟浄は水場へと上がっていった。水場には、大きな石の水盤があり、たっぷりと水で満たされていた。崖の割れ目に竹筒が差し込まれており、岩から染み出る湧き水が、竹筒を通って水盤に流れ込んでいるのだ。

 「あいつら、まさか皇帝の知り合いとはなぁ……いくら偉い坊さんといっても、そこまでとは思わなかったぜ」

 悟浄は、水盤に立てかけてあった柄杓で水を飲みながら、ひとりごちた。

 

 一方、玄奘と八戒は、赤い楼閣のある崖の下に辿り着いていた。無患子の木がまばらに生える林の向こうに、ひっそりと立つ梯子が見える。幅は一尺ほどしかなく、枠の太さは一寸にも満たない細いものである。その貧弱な梯子が、崖の頂上の楼閣まで、およそ1町近くも真っ直ぐに伸びている。この太さで、この長さを支えていることだけでも不自然なのだが、途中に継目らしきものもなく、崖の壁面に固定されている様子もない。ただ地面から生えた梯子が、頂上の楼閣まで、何の支えもなく届いているのだ。この梯子も、頂上の楼閣と同じように赤く塗られているため、どんな素材でできているのか、見ただけではわからない。

 玄奘はしばらくこの梯子を眺めていたが、やがてぽつりと呟いた。

 「面白いなあ」

 迷いのない動作で格子をつかみ、足を掛け、梯子を登り始めた。3間(約5m)ほど登ったところで、八戒に声を掛ける。

 「二人で登っても大丈夫そうだぞ」

 「わかりました」

 八戒も梯子に手を掛けた。二人とも荷物を背負ったまま、ぐいぐいと上がっていく。

 

 ものの5分と経たないうちに、二人は崖の天辺までたどり着いた。崖の縁に楼閣の回廊が接しており、梯子の末端はその欄干に縄で固定されていた。玄奘たちは欄干を越えて回廊に上がると、楼閣を一周してみたが、入り口らしきものは見当たらない。楼閣は上から見ると八角形になっており、東西南北に面した壁面には、太極図をあしらった装飾が嵌め込まれた円窓があった。

 「どこから入るんだ?長老はこの中にいるのか?」

 玄奘は円窓を覗き込んだが、真っ暗で中の様子は見えない。四方の壁に窓があるというのに、光が全く差し込んでいない。窓が何かで塞いであるわけでもなさそうである。

 「ここまで登ってきた梯子といい、この楼閣といい、不思議ですね。仙術によるものでしょうか」

 八戒も、珍しく戸惑っているようである。

 すると、二人の頭上から声がした。

 「いらっしゃい。ずいぶん早かったわね」

 見上げると、楼閣の屋根の上から、先ほどこの楼閣のことを教えてくれた女――珪が顔を出していた。

 「あんたはさっきの……」

 「珪って呼んでちょうだい」

 「どういうカラクリなんだ?」

 「実は、私がこの太極門の長老なの。こう見えても、結構年を取ってるのよ。意外でしょう?ふふ」

 少し笑いながら、屋根の上からふわりと回廊へ飛び降りてきた。着地の音は聞こえず、まるで体重がないかのようであった。

 「待ってたわ。玄奘さん、八戒さん。それと、悟浄さんも来てたわね」

 「珪さん、と申されたか。いろいろと知っておられるようだが……」

 「ええ、いろいろとね」

 「事情を説明する手間が省けるってことだな。じゃあ早速、悟空のいるところへ案内してもらえるかい?」

 「私がなぜあなたがたのことを知っているのか、聞かないのね」

 「おおかた、恵岸の差し金だろ?」

 「あら、ご明察。恵岸さんから聞いたとおりの方ね」

 「何を聞いたかは言わなくていいぜ」

 「ふふ、言わなくてもだいたいわかってるんでしょう?」

 「ふん」

 玄奘は鼻で笑う。

 「ところで、長老はどうやってここまで?この梯子以外に、ここへ登る通路があるようには見えなかったが?」

 八戒は、珪が自分たちを追い越してここへ来た方法について訪ねた。

 「珪でいいわよ。自分で言うのもなんだけど、“長老”なんて似合わないでしょう?」 「まあ……確かに」

 「あの太極図と、この楼閣は繋がってるのよ。見えない通路でね」

 「見えない通路?」

 「それ以上聞いても、俺たちにはわからない理屈の話になるんだろ?」

 玄奘が口を挟む。

 「またもご明察。知らない、ということを知っているのも、ひとつの明晰さね」

 「そんなことより、悟空にはどうやったら会えるんだ?」

 「悟空がどんな“存在”か、玄奘さんは知ってるんでしょ?なのに、それほど悟空に会いたいの?」

 「ああ、是非とも会いたいね」

 「そう、わかったわ。でもきっと、驚くわよ?」

 「それを期待してるんだけどな」

 「ふふ、あなたやっぱり面白い方ね」

 珪は笑いながら、壁の円窓に手を触れた。円窓はみるみるうちに広がり、壁の高さいっぱいの直径にまで広がった。そして太極図を象った窓枠が、中央を区切る曲線に沿って左右に分かれ、壁に円い入り口ができた。楼閣の中はさきほど見たような暗闇ではなく、壁の円窓と、天井の明り取りから光が差し込んでいた。中央に円卓、その周りに椅子が3つ置かれ、円卓の上には茶器がひと揃え置いてある。茶瓶からは湯気が上がっていた。珪は玄奘たちを部屋に招きいれると、椅子のひとつに腰掛けた。

 「さあ、お茶でも飲みながらゆっくりお話でもしましょうか」

 「おいおい、悟空に会わせてくれるんじゃないのか?」

 「これも、結界を越えるための儀式のひとつなんです」

 「結界を越える儀式?また面倒なことだな……」

 頭を掻きながら、玄奘が珪の右側の椅子に座る。八戒も、部屋の中を見回しながら、空いた椅子に腰掛けた。

 「簡単に説明するわ。太極門の結界を抜けるためには、そのままの体では無理なのよ。私はこの山で長く暮らしてるから問題ないんだけど、あなたがたは先ほど来たばかりでしょう?結界を抜けるには、体の気が濃すぎるのよ。本来なら、この山で半年ほど生活してもらって、徐々に気を薄めていくんだけど、そんな悠長なことはやってられないわよね?このお茶を飲めば、ほんの一刻足らずで体の気が薄まってくるの」

 「なるほど……しかし、そのお茶に何か副作用などはないのか?」

 八戒が尋ねる。

 「少々眠くなるくらいかしら。普通の人なら三日は眠りこけてしまうだろうけど、あなたがたなら大丈夫なはずよ」

 「ふうん。じゃ、早速頂くとするか」

 「どうぞ、美味しいわよ」

 珪が白磁の茶碗に注いだ茶は、濃い赤茶色を呈している。立ち上る湯気からは、花のような香りがした。口に含むと、苦味と共にかすかな甘みが舌に絡んだ。

 「うん。確かに、うまい茶だ。あんたの淹れ方もうまいな」

 八戒も隣で頷いている。

 「ありがとう。お茶を淹れるのはずいぶん久しぶりだから、ちょっと不安だったのよ」 珪は嬉しそうに微笑んだ。

 「ところで、あんたはここで暮らして何年になる?」

 「そうねぇ……かれこれ、百二十年は経つかしら」

 「百二十年……じゃあ年齢はそれ以上ってことか。とてもそうは見えないが」

 「仙人としては若いほうなのよ」

 「仙人か……実際に会うのは初めてだよ。ここで修行してるのはみんな仙人なのか?」 「修行してる人たちはまだ仙人じゃないわ。でも、彼らはまず仙人にはなれないでしょうね。見ての通り、ここで修行する人たちのほとんどが、中年を越えてるわ。仙人として転生するには、年を取りすぎているの」

 「そりゃ少々残酷な物言いだな。あんたから引導を渡すことはないのか?長老っていうからには、ここで修行する人間の面倒を見てるんだろう?」

 「彼らはもう知ってるわ。たとえ仙人になれないとしても、目標に向かって修行することが、彼らにとっての慰めになってるのよ。仙人になれないとわかった上で、人生をどうするか、私が決めることではないわ」

 「仙人にはなれなくても、世捨て人にはなってるということか」

 「ここで静かに暮らすことが性に合っているなら、それも幸せな生き方でしょう」

 「そういうもんかね」

 「そろそろ、お茶が効いてきたんじゃないかしら?」

 「ん?どうかな……おれはまだ何も」

 「たぶん、八戒さんのほうが早く効くと思うわ。あなたの体は特殊だから」

 八戒の眉がぴくりと上がる。

 「それは……恵岸さまからお聞きに?」

 「いえ……ごめんなさい、内緒だったかしら?」

 「いや、玄奘どのはもう知っているが……」

 「大丈夫、他の人には言わないわ」

 玄奘がニヤリとする。

 「さすが、長老ってだけのことはありそうだな」

 「褒め言葉と受け取っておくわね」

 八戒の表情に戸惑いが浮かぶ。

 「効き目が現れたようです」

 「どんな感じだ?」

 玄奘が興味津々といった感じで聞く。

 「これは……まるで妖体のままでいるときのような……」

 「ふぅん……おっと、こっちも来たみたいだぜ」

 珪が玄奘のほうを見る。が、その視線は玄奘の頭の少し上に向けられていた。

 「思ったより早いですね。人間にしてはちょっと早すぎるような……」

 「俺だって一応人間だぜ。こいつとは親戚でもなんでもないからな」

 八戒を指差して、玄奘が軽口を叩く。

 「しかし、こりゃ妙な感覚だ。意識の輪郭がぼやけて、体からはみ出してるようだ」

 「そう、あなたの自我の外殻はいま、限界まで希薄になってるわ。結界を抜ける時、自我を破壊されないようにするためにね。あの結界にはまだ解明されていない部分があるから、完全に開くことは私にもできないの」

 「なるほど。説明はいいが、そろそろ結界を開いてもいいんじゃないか?これの効き目にも限りがあるんだろ?」

 「そうね、じゃあそろそろ太極門を開きましょう」

 そう言うと、珪は懐から一枚の紙を取り出した。紙には文字のような、模様のようなものが描いてある。その中央に、茶瓶から茶を注いだ。しかし注がれた茶は円卓の上に広がらず、紙に染みを作ることもなく、模様の中へ吸い込まれていった。茶瓶の中身を全て注ぎ終わると、珪が微笑んだ。

 「これでいいわ。それじゃ、太極門へ入りましょう」

 珪が手を上げて壁のほうを示すと、その先に人が通れる大きさの穴が開いていた。部屋に入ってきたのとは反対側の円窓が開いたのだ。その穴は、水で満たされているように表面が波打ち、微かに光を放っている。

 「ここから外の太極門へ出られるわ。私の後についてきて」

 珪が穴に入っていき、すぐに姿が見えなくなった。

 玄奘と八戒は顔を見合わせて頷くと、まず玄奘が、次に八戒が太極門へ通じる穴へと踏み込んでいった。

 

 太極図の傍らで、悟浄はあぐらをかいて座っている。

 「伝説の仙女を連れて天竺まで……しかも皇帝の依頼でねぇ。修行のつもりでついてきたが、なんかとんでもねえ旅になりそうだな。ヤバくなったら途中でずらかるか……だけどあの女、俺を勝手にあいつらの仲間だとか決め付けて……」

 ぶつぶつ独り言を呟きながら、この先のことを考えているようである。

 何気なく太極図を眺めながら物思いに耽っていた悟浄だが、ふと何かに気づいた。地面に描かれた太極図の色が、さっきより微妙に濃くなっている。視線を上げて、太極図の全体を視界に収めると、その印象がかなり変わっていた。太極図は、白と黒の紋様だが、最初に見たときと、紋様の白い部分と黒い部分が入れ替わっているのである。さらによく見ると、太極図の溝の部分にうっすらと水が溜まっている。

 「なんだ……?上の水場から流れてきてるのか?」

 しかし、水場から太極図へと水を引くような、溝や樋はどこにもない。岩の下から、水が染み出しているようだ。それが、みるみるうちに溝から溢れ出し、やがて太極図全体を水で覆っていった。太極図を覆った水がキラキラと陽光を反射し、その輝きが微細な粒子となって、空中に上り始める。悟浄は、その粒子が人の形を作り始めていることに気づいた。

 「お……おお?師匠と、八戒……さん?」

 悟浄の前に現れたのは、玄奘と八戒、それに珪の三人だった。

 「よう、悟浄。着いてたのか」

 こともなげに言う玄奘に、悟浄はあっけにとられて返事ができずにいる。その間に、玄奘たちの姿はぼんやりした光の集まりから、生身の肉体へとまとまりつつあった。

 「師匠、八戒さん……なんなんだこれ?」

 「悟空に会わせてもらうための準備さ。これから珪に案内してもらう。おまえはここらで適当に時間を潰しててくれ」

 「ええ?もうずっと待ってたんだぜ?俺も行くよ!」

 「いや、おまえが来ても悟空には会えないぞ?」

 「なんでだよ?一緒に行けばいいんだろ?」

 「俺たちがここから出てきたのも、悟空に会うための準備なんだ。細かいことは後で話す。とにかく今はここで待て」

 「待てって言われても、俺は犬じゃねえんだよ。勝手についてくぜ」

 「ふん……わかった、好きにしろ。どうなっても知らんぞ」

 玄奘は、悟浄のこういった性格が嫌いではなかった。悟浄は嬉しそうな顔で、歩き出した玄奘たちの後に続いた。珪は笑顔でその様子を見ている。八戒はあいかわらず無表情のままである。

 太極図をしばらく南へ下ると、岩だらけの景色は再び木々が茂る土地へと変化し、やがて道の両側に楡の巨木が立つ場所に着いた。樹高は六間以上、幹の太さは直径にして二間はあるだろう。互いの枝は上空で絡み合うように茂っており、まるでそこが入り口であるかのように、そこから先は深い森が広がっている。

 「悟空はこの森の中にいます。この森にも結界が張ってありますが、ごく単純なものです。悟空は封じ込められているわけではなく、自らの意志でこの森から出ないのです」

 「ああ。さっきの太極図の大掛かりな結界に比べたら、ずいぶん簡単な代物だな。ただの境界線みたいなものだ」

 「はい。何かを封じ込めたり、侵入を防ぐ目的で作られたものではありませんね」

 玄奘と八戒が、巨木の枝ぶりを見回しながら答えた。悟浄は三人が何の話をしているのか全くわからず、ただ巨大な楡のアーチに見とれているだけである。

 「では、参りましょう。この森に人が来ることは珍しいので、彼女のほうから近づいてくるでしょう」

 「そうなのか?探す手間が省けるな」

 珪の後に玄奘、八戒そして悟浄が続き、楡のアーチをくぐって森へと踏み込んだ。

 「変わった森だ……これだけ深く木々が茂っていながら、まるで誰かに手入れされているような秩序を感じる」

 「わかりますか、八戒さん。この森は、悟空が500年の歳月をかけて作り上げたものなんです」

 「500年……いくら仙人とはいえ、ひとりでこれだけの森を作るとは……」

 「ふうん……500年ねぇ」

 悟浄にとっては、まるで現実味のない話である。その悟浄が突然、立ち止まった。

 「おうあっ!?」

 玄奘たちが振り返る。

 「どうした悟浄?」

 「い、いや、そこに女の子がいたんだ。十二かそこらの……」

 「えっ?悟浄さん……どうして?」

 珪が驚いた顔で悟浄を見る。

 「あっ、ほらそこに!」

 再び、玄奘たちが振り返ると、そこには悟浄が言うとおり、十二歳くらいの少女が立っていた。

 「悟空……」

 珪がつぶやくのを聞いて、玄奘はいぶかしげな表情で珪を見た。

 「悟空?……この子が?」

 「ええ。彼女が悟空です。ほら、驚いたでしょう?」

 「驚いたっていうより……信じられないと言ったほうがいいな」

 八戒も驚きと戸惑いで、言葉を失っている。

 「え?悟空?どこに?」

 悟浄だけはまだ、事態が飲み込めていないようである。

 

 珪が悟空だという少女は、ゆるい癖のある、栗色の髪を腰まで垂らし、大きな瞳を輝かせて、玄奘たちを見上げていた。鮮やかな朱色の布を体に巻きつけ、天竺の僧侶が着ている袈裟のように、右肩を出している。首には皮ひもで結んだ小さな金属製の飾りを下げている。形は仏教の法具である独鈷に似ているが、親指ほどの大きさしかない。それ以外には何も身につけておらず、裸足である。仙女というには幼すぎる容姿である。まして八百年以上生きているようには見えない。

 

 「珪以外の人が来るなんて珍しいね」

 見た目通り、静かな澄んだ少女の声で悟空が言葉を発した。伝説の仙女だとにわかには信じがたいこの少女の姿に、玄奘も八戒も、どう対応すればいいのかわからず、言葉を失っていた。

 「ひさしぶり……」

 「ええ、十年ぶりかしら?」

 「この人たちは?」

 「唐の長安からいらした、玄奘さんと八戒さん、それに悟浄さんよ」

 珪が手で示しながら、玄奘たちを紹介した。

 「八戒、ちょっと変わった体してる」

 いきなり、悟空が八戒を見て言った。八戒は、驚いて玄奘のほうを見た。

 「ただの少女でないのは確かなようですな」

 「そのようだな。お前が普通の人間に見えてるのは悟浄だけか。帰ったら恵岸のやつに教えてやろう」

 「しかし、まさか悟空がこのような少女だとは……」

 「そういえば、恵岸から聞いた伝承にも、他の文献にも、悟空の姿形については触れられてなかった。妙だとは思ってたんだが……」

 蚊帳の外に置かれた悟浄は、少しいらだって口を挟んだ。

 「おいおいなんだよ。悟空って、この女の子のことか?どこが八百歳なんだよ。どう見たって十二、三歳だろ」

 悟空をじろりと見て、ぶっきらぼうに答える。

 「本当は八百歳だけど、心は二十歳よ」

 「見た目は十二歳で、本当は八百歳で、心は二十歳?わけわかんねえ……」

 悟浄が頭を抱えていると、珪が口を開いた。

 「それはそうと、悟浄さんにはどうして悟空が見えるのかしら?太極門を通っていないのに……」

 「この子の血が、あたしに近いからよ」

 悟空が間髪をいれず、珪の疑問に答えた。

 「えっ?悟浄さんと悟空には、どこかで血の繋がりがあるってこと?」

 「うん。あたしの母方の血が入ってる」

 「そうなの……世の中って狭いわねぇ。それとも、運命的なものなのかしら」

 悟浄が二人の会話を聞いて割り込んできた。

 「ちょ、ちょっと待ってくれ、おれとこの子の血が繋がってるって?」

 「ええ。悟空の母親とあなたのご先祖様が、親子か兄弟だったのではないかしら」

 「悟空が八百歳なら、八百年も前の先祖ってことだろ?そんなの本当に血が繋がってるかどうか、わかるのかよ?」

 「さあ?でも太極門を通っていないあなたに悟空が見えるのは事実なんだから、本当なんじゃないかしら?」

 「あんたも適当だな……」

 「それはそうと、そろそろ本題に入りたいんじゃないかしら?玄奘さん」

 「ん?ああ、そうだな」

 玄奘が悟空の前に立った。悟空の身長は、玄奘の胸にやっと届くくらいしかない。玄奘は腰を落として、悟空と目線を合わせた。

 「悟空、俺たちはこれからガンダーラへ向かうところなんだが、おまえにも一緒に来てもらいたいんだ」

 「いいよ」

 「え?そうか、うん……じゃあ頼む」

 あまりにもあっさりした返答に、玄奘も拍子抜けしたようである。

 「玄奘どの、緊箍児はどうされますか?」

 八戒が、荷物から緊箍児を取り出して見せた。

 「緊箍児……懐かしい」

 悟空が八戒に歩み寄り、その手から緊箍児を掠め取ると、自分の頭にすっぽりとはめ込んだ。八戒は呆気に取られて悟空を見ていたが、内心は愕然としていた。普通なら、体を避けるなりして、奪い取られまいとする動きが反射的に出るものだが、悟空にはあっさりと自分の手からものを奪い取られたのである。八戒にしてみれば、有り得ないことだ。それを察した玄奘が、横から小声で耳打ちした。

 「こいつは本当にただ者じゃなさそうだな」

 「え、ええ……」

 「ま、嵌めさせてもらえるかどうかわからなかったものを、自分で嵌めてくれたんだから、良しとするか」

 驚く二人を尻目に、悟空は頭に嵌めた緊箍児を、しきりに触っている。

 「この嵌め心地……達磨を思い出す」

 その様子を珪がにこやかに見つめている。

 「それは緊箍児ね?達磨大師が悟空のために作ったっていう」

 「うん。これを嵌めないと両界山から出られない。達磨がそう言ってた」

 「そうなのか?俺は悟空の暴走を抑制するためのものだと聞いていたが……」

 玄奘は、恵岸から聞いた話や、文献で読んだことなどからそのように考えていたが、実際の緊箍児の役割は違うようであった。達磨大師が悟空を両界山に幽閉してから五百年も経っているのだ。伝承が事実と食い違っていたとしても不思議ではない。

 「で、ガンダーラへはいつ出るんだ?」

 横で話を聞いていた悟浄が、しびれを切らして口を開いた。

 「そうだな、とりあえず今日は休んで、明日出発することにしよう」

 「はぁ、よかった。もう足が痛くてしょうがねえんだ。早く飯食って寝ようぜ」

 「そういえば悟浄、俺たちの行く先が天竺じゃないことに驚かないな」

 「え?さっきガンダーラへ行くって言ったじゃねえか」

 「いや、お前には天竺へ行くと話してたはずだが……」

 「そうだっけ?別にどっちでもいいよ。おれにとっちゃどっちでも一緒さ」

 「やっぱりそうだよな。おまえ、楽なやつだな」

 「なんだそりゃ?」

 二人のやり取りを後ろで聞いていた八戒は、珍しく笑みを浮かべていた。