心は空気で出来ている

空気を読むな、呼吸しろ。

西遊奇 -4-

第四章

 

 長安の都から西へ数十里も行くと、なだらかな丘陵地帯が広がる。丘を縫うようにして細い川が何本もうねり、ところどころに小さな池が点在している。水辺に木が茂っているほかは、ほとんどが乾いた土と草地ばかりの土地である。

 点在する池のひとつで、少年が馬に水をやっていた。まだ成長途中の細身の身体に、皮の服を着ている。黄色い頭巾をかぶり、腰には長剣を差していた。池のほとりに腰を下ろし、石ころを投げたりしながら、馬が水を飲み終わるのを待っている。そこへ、丘の向こうから馬に乗った青年が駆け寄って来た。池のそばまで来ると、馬に乗ったまま少年に声を掛けた。

 「悟浄、またこんなとこで油売ってんのか。獲物が見つかったらしいぞ」

 少年は退屈そうな目で馬上の青年を見上げた。

 「高適か。どうせまた行き倒れ寸前の坊主かなんかだろ?それより町へ行こうぜ。こんなところで通りすがりのやつらを襲ったって、ろくなもん手に入らねぇよ」

 「今度はただの坊主じゃないぞ。天竺へ向かう三蔵法師って偉い坊さんだそうだ。長安に行ってた呂究が仕入れた情報だ。間違いねぇ」

 「呂究?またあいつが都へ行ってたのかよ……なんでいつも呂究なんだ」

 「いいじゃねぇか、あいつは情報を集めるのがうまいんだからよ。そんなことより早くしろよ、久しぶりに金目のもんが手に入りそうだぜ」

 「チッ……」

 悟浄はしぶしぶといった感じで立ち上がり、水を飲ませていた馬に跨った。

 「金が入ったら、おれも長安へ行きてぇな」

 「好きにしろよ。その前にちゃんと仕事しねえと、分け前もらえねえぞ!」

 「わかってるよ!」

 二人は高適がもと来た方角へと馬を走らせた。

 

 悟浄と高適の二人は、仲間が三蔵法師を襲撃するという場所に向かった。小高い丘の間を通る道で、両側が急な斜面になっており、逃げ道がない。彼らはいつもこのあたりで旅人や交易商人を襲う盗賊団を組んでいた。盗賊団といっても、不良少年が集まってできたような、20人ほどの集団である。皆が黄色い頭巾をかぶり「黄巾賊」と名乗っていた。

 「高適、そんな偉い坊さんだったら、護衛のやつらとかいるんじゃないのか?大丈夫なのかよ」

 「それが、お供の男が一人だけだそうだ。ロバには荷がいっぱい乗ってたそうだぜ」

 「なんだそりゃ?本当に偉い坊さんなのか?」

 「さぁな。どっちにしろ、金目のもんさえ手にはいりゃいいだろ。坊さんとお供の二人だけなら、剣を振り回してちょっと脅せば、荷物全部置いて逃げてくだろう」

 「そういう楽な獲物ばっかりだったらいいのにな」

 「おまえは本当にやる気がないな……おい、そろそろだぞ」

丘に挟まれた狭い道を進むと、悟浄たちと同じように黄色い頭巾をかぶった若者の集団が、三蔵法師の一行――玄奘たちを取り囲んでいるのが見える。悟浄は、玄奘を見るなりその体格に驚いた。

 「おいおい、あれが坊さんかよ?頭は丸めてねえし、結構いい体してるじゃねえか。あんなの相手にして大丈夫なのか?みんな固まってるぜ」

 「本当だ……人違いなのか?二人組には違いねえが……」

 高適も不安げな表情である。二人は馬を歩かせ、ゆっくりと近づいていった。

 玄奘たちを取り囲んでいる集団の中で、馬から下りて玄奘の正面に立っているのが、黄巾賊の頭目・張角である。張角も、盗賊の頭を務めるだけあってなかなかの体格だが、玄奘に比べると頭ひとつ低く、筋肉の量も見劣りする。しかし、仲間たちの手前、怖気づくわけにもいかないのだろう、玄奘の肉体が持つ迫力に負けじと精一杯胸を張っている。

 玄奘は、この状況に全く動じていないどころか、むしろ楽しんでいるようでさえある。八戒のほうは、まるで無表情である。二人とも、剣を手にした20数人の人間に取り囲まれているというのに、いささかの恐怖心も、わずかな警戒心すらもその顔に浮かべてはいなかった。

 「あんた、天竺へ行く坊さん……だよな?」

 張角玄奘たちのなりを見て、本当に天竺へ行く僧なのかどうか、疑わしくなったのだろう。

 「ああ、そうだが。何か用か?」

 実に自然な笑顔を見せながら、玄奘が返答する。街中で、顔見知りにばったり会ったとでもいうような表情である。

 「やっぱりそうなんだな。見ての通り、おれたちは盗賊だ。命が惜しければ、荷物は全部置いて行きな」

 「やっぱり盗賊か。どう見てもそうだろうと思ったよ。しかしなぁ、これから長い旅なんだ。荷物を渡すわけにはいかんな」

 「これを使うことになるぜ?」

 張角が鞘から剣を抜き、切っ先を玄奘の顔に向ける。

 「ほう。これを、どう使うんだ?」

 張角の目に苛立ちが走る。こめかみがわずかに痙攣し、歪な笑みが唇に浮かんだ。

 「へっ、これから教えてやるよ」

 いきなり剣を玄奘の顔めがけて突く。まだ本気ではなく、頬か耳をかすめる程度の位置を狙っている。おおきく振りかぶったりしないことから、多少は剣を使い慣れているのが見て取れる。切っ先を顔に向けた状態からの突きである。避けられる距離ではない。手ごたえを感じたのか、張角の笑みがさらに強くなる。しかし、玄奘の頬を伝うはずの血は、一滴も流れてはこなかった。

 「危ない使い方だな。切れたらどうするんだ?」

 張角の顔から笑みが消えた。自分の剣を避けられるという事態を、全く予想していなかったのだ。さらに、玄奘が剣を避ける動作も見えなかったのである。確かに切ったはずだが、相手の頬は切れていない。張角の頭は、何が起きたのかを理解できず、ほんの一瞬、パニックに陥った。

 その一瞬の隙に、玄奘張角の剣の刃を指先でつまみ、するりと奪い取った。

 「あっ……?」

 張角が間抜けな声を上げる。切ったと思った次の瞬間には、相手に剣を奪われていたのである。ますます何が起きたのかわからなくなっていた。だが、自分は丸腰になり、目の前の相手は剣を握っている。この状況を見て反射的に後ろに跳躍し、距離を取った。

 「またずいぶんと安物の剣だな。手入れもされてない」

 奪った剣を眺めながら、玄奘が言う。店先に置いてあった剣を品定めして、店主に文句を言っているような風情である。仲間の目の前で醜態をさらした張角は、玄奘との力量の差に戦慄する前に、怒りで身を震わせた。

 「お、おいっ!おまえら、やれ!切っちまえ!」

 周りで見ていた仲間も、張角玄奘の間で何が起きていたのか、しばらく理解できていなかったが、張角の怒声に顔を見合わせ、数人が馬を走らせて、玄奘に切りかかった。5人ほどの人間が立て続けに玄奘めがけて突っ込んでいったが、ことごとく剣を弾き落とされていた。張角から奪った剣の平たい部分で、相手の手首を打ったのである。しばらく物が掴めない程度のダメージを受けているが、誰一人、手首を切り落とされた者はいない。馬上から切りつけられて、これだけの技を見せつける玄奘の驚異的な力量を目の当たりにして、悟浄は全身が泡立つのを感じた。隣で見ていた高適は、張角をはじめリーダー格の仲間たちが、玄奘に全く歯が立たないのを見て、すでに逃げ腰である。

 「お、おい……やべえぞあいつ。格が違いすぎる」

 「あ……ああ。すげえな……」

 「っておい、感心してる場合かよ!早く逃げようぜ」

 「ああ……」

 上の空で答えながら、悟浄は玄奘から目が離せない。高適はそんな悟浄を待つこともなく、馬首を廻らして今来た道を引き返していった。黄巾賊を名乗ってはいるが、実態は不良たちの寄せ集めである。リーダー格の人間はいても、組織を統率できる本当のリーダーはいない。組織を維持するための目的もあいまいである。皆、盗賊をしながら享楽的にその日暮らしをしたいだけの、自堕落な若者の集団なのだ。張角たちリーダー格のメンバーでも歯が立たない相手に、わざわざ危険を冒してまで立ち向かう理由はない。玄奘たちを取り囲んでいた他のメンバーたちは、散り散りに逃げ始めた。やがて張角も自分の馬に跨り、捨て台詞も残さず去って行った。一人残った悟浄は、玄奘たちが再び歩き始めるのを見ると、意を決したように踵を返し、馬を走らせた。

 

 玄奘たちは、何事もなかったように歩を進め、丘に挟まれた狭い道を抜けた。

 「あいつら、また来るかな?」

 玄奘が八戒に聞いた。また来ることを期待しているような口ぶりである。

 「どうでしょう?さっきはかなり驚いていたようでしたが……おそらく、黄巾賊と呼ばれている連中でしょう」

 「へぇ、有名なのか?」

 「このあたりで盗賊を働く、若いゴロツキの集団がいると聞いています」

 「たまにああいうのが来てくれると、退屈しないで済むよな」

 「しかし玄奘どのには、あの程度では面白味がないのでは?」

 「そうでもないさ。あんたには、馬のほうが怯えて寄り付かなかったな」

 「争いごとは極力避けたいものですから」

 「なるほどね」

 そんな会話を交わしながら歩いていると、道の先に馬を引いた少年が一人、佇んでいるのが見えた。悟浄である。黄巾賊の仲間とばれないように、黄色い頭巾は被っていない。 「お、さっきのやつらの一人じゃないか」

 玄奘には既にばれていたようである。そのことに気づかない悟浄は、玄奘たちが近づいてくると、愛想笑いを浮かべながら話しかけた。

 「やあ、お兄さんたち、旅の人かい?」

 「ああ。どうした?さっきの仲間とはぐれたのか?」

 「……え?」

 「後ろのほうで見てただろ」

 「(ばれてたのかよ!)……あ、ああ、そうだけど……あいつらは別に仲間ってわけじゃないんだ」

 「そうなのか?」

 「そ、そうだよ、成り行きで一緒に行動してただけさ」

 「へぇ……で、おれたちに何か用かい?」

 「まあね。ちょっとあんたに相手してもらおうと思ってさ」

 そう言うと、悟浄はふいに玄奘に歩み寄り、拳を繰り出した。その拳が玄奘に届くかと見えた刹那、体を回転させながら沈みこみ、玄奘のくるぶしめがけて強烈な足払いを仕掛ける。玄奘が半歩下がって足払いを避けると、そのまま回転の勢いを止めずに跳躍し、側頭部めがけて回し蹴りが襲い掛かる。

 悟浄の体格は玄奘に比べれば二周りほども小さく、体重差は歴然としている。どんな攻撃を受けても、玄奘にそれほどのダメージはなさそうだが、悟浄は攻撃の手を緩めない。玄奘はその全てをかわしながら、口元にかすかな笑みを浮かべていた。悟浄の前蹴りが玄奘のみぞおちに吸い込まれたとき、初めて玄奘がその蹴りを掌で受けた。

 「無影拳か」

 玄奘の問いに、悟浄が笑顔で答える。

 「あんた、もしかして鬼坊主の玄奘じゃないか?」

 「そのあだ名を知ってるってことは、おまえ、閣の縁の者か?」

 「ん……まぁ、そんなところかな。閣鉄心はおれの叔父だよ」

 「なるほどな……筋が似てるわけだ。叔父に代わって仕返しか?」

 悟浄は少し顔を歪めて舌を鳴らした。

 「あいつのために仕返しなんてとんでもない。弟子入りしたいんだ、叔父を倒したあんたにね」

 「ほう……それはまた、どういうことだ?」

 

 悟浄は、長安の南に位置する万源という田舎町で生まれた。幼い頃に両親を亡くし、万源よりさらに南に下った、渝州という大きな町に住む叔父の家に引き取られた。叔父の閣鉄心は無影拳の達人であり、かつて50人近い弟子を抱える道場を構えていた。そこへ若き日の玄奘が道場破りに訪れ、叔父を倒したのである。悟浄が引き取られた時、すでに弟子たちは去り、道場も廃れていた。鉄心には子供がなかったため、道場再開の夢を幼い悟浄に託し、毎日厳しい稽古をつけていた。しかし生活は苦しく、酒を飲んでは暴力を振るう鉄心に嫌気が差した悟浄は、やがて家を飛び出し、黄巾賊に加わったのである。

 

 ひととおり悟浄の身の上話を聞いた玄奘は、腕を組んで首をかしげた。

 「ふむ……おまえが盗賊をやることになった責任の一端はおれにもある、ってわけか」 「そう言えなくもねえかな……でも、そんなこたあどうでもいいんだ。おれは叔父が嫌いだったし、道場主なんて性に合わないことをやらされるのも嫌だったからね。おれはもっと強くなりたいんだよ。あんたみたいにさ」

 「悟浄とやら。我らは皇帝の命によって天竺へ赴く旅をしているのだ。玄奘どのに弟子入りしたいのであれば、天竺より戻ってからにするがいい」

 八戒が口をはさんだ。

 「おれも一緒に天竺まで行くよ。旅をしながらでも修行はできるだろ?」

 「天竺までの道のりはそれほど甘いものではない。戻ってくるまでに何年もかかるのだぞ」

 「それじゃなおさら戻ってくるまで待ってられねえよ。食い物とかは自分で調達するからよ、いいだろ?玄奘さん」

 「おれは、弟子は取らない方針でね。人に教えるのは苦手なんだ。そもそも、誰かに鍛えてもらおうなんて思ってるうちは、どんな師匠についたって強くはなれんさ。本当に強くなりたきゃ、自分でなんとかするんだな」

 玄奘の言葉に、一瞬鼻白んだ悟浄だったが、やがてその目に強い意志が宿った。

 「そうかい、わかったよ。弟子入りはやめた。そのかわりおれも天竺へ行くことにするよ。あんたらに付いて行くんじゃないぜ、おれの意志で行くんだ。たまたま行く先が同じってだけだからな」

 「ふん、ものは言いようだな」

 「玄奘どの……」

 八戒が何か言いかけるのを、玄奘が制した。

 「まあ、いいじゃねえか。本人が自分の意志で行くって言ってるんだ。おれたちの旅とは関係ない。そうだろ?」

 「なるほど、わかりました」

 八戒はそれ以上何も言わなかった。渋々承諾したという風でもなく、表情は普段と変わらない。悟浄の扱いは、玄奘に任せるということなのだろう。