心は空気で出来ている

空気を読むな、呼吸しろ。

黒きポイの狂想曲(カプリチオ) -5-

5.エージェント

 ふと気がつくと、アケミの背後にいた人影は消えていた。俺は、シンジが現れたことをアケミに伝えようと、彼女に近づいた。その時、アケミがこちらを向き、軽く右手を上げた。俺に向かって合図をしたのだと思った瞬間、その手が暗がりから飛来した物体を掴んでいた。それは、赤いポイだった。ほぼ真横から飛んできたポイを、顔に当たる寸前ノールックで受け止めたのだ。もう、彼女が何の達人なのか、わからなくなってきた。

 「赤いポイは決闘の合図。このポイの紙を破れば、決闘に応じるという意味」

 アケミは独り言のように、抑揚のない声でつぶやいた。たぶん、俺に教えてくれているのだろうが、彼女の意識はもう、赤いポイを投げつけた暗がりの人影に集中しているようだ。いや、おそらく、俺がシンジと会話している時から、彼女はそいつに気づいていたに違いない。そのほうがかっこいい。

 アケミは赤いポイを眼前に持ち上げると、それを握った手の親指で、紙に穴を開けた。決闘を受けるという合図だ。暗がりに隠れていた人影が、ゆっくりと照明の当たる場所に姿を現した。

 そいつは、盆踊りの会場にはまったく不似合いな姿で、薄明かりの中に立っていた。黒いスーツに白いカッターシャツ、赤いネクタイ、そして真っ黒なサングラス。髪型はぴっちり七三に分け、黒光りする革靴を履いている。ネクタイの色こそ違うが、このスタイルはまるで……

 「エージェント・カネダよ」

 「エ?」

 「シンジを付け狙う組織“茜色の黄昏団”の構成員」

 シンジを付け狙う? あかねいろのたそがれだん? そんなマンガ知らないぞ?

 「クックック……わざわざご紹介いただいて、恐縮ですね」

 変に芝居がかった喋り方。右手で顎をつまみ、その肘を左手で抱えている。この口調、このポーズ。俺は初対面にも関わらず、すでにこの男にムカついていた。いけ好かないってのはこういうことを言うんだろう。

 「タカシさん、この女を片付けた後で、あなたにちょっとお話があります」

 「な……え?」

 なぜ、こいつは俺の名前を知ってるんだ?

 「あなたの才能には、我々も以前から目をつけていました。まだまだ原石ではありますが、磨けばシンジをも超える可能性を秘めている」

 「俺が……シンジを?」

 「その女も、興味がないフリをしていますが、その実あなたの才能に目をつけている人間の一人ですよ」

 アケミを見ると、あからさまに俺の視線を外して、あさっての方向を見ている。まるでカネダとかいうこの男の言うことを、全身で肯定するかのようなそぶりだ。これで口笛でも吹いてたら、完璧にテンプレ通りのとぼけ方だ。

 「あの……話が見えてこないんだけど」

 「あなたはシンジに憧れて裏ポイ師を目指しているようですが……もしシンジの正体を知ったら、彼に憧れるなんて、とんでもないと思うでしょうねぇ」

 「カネダ、それ以上無駄なお喋りは止めなさい。勝負が済んでから、好きなだけ喋ればいいわ。ただし、私に勝てたらの話だけど」

 「おやおや、この子はどうやら私に勝つ気でいるようですよ。身の程を知らないというのは、恐ろしいことですねぇ」

 「ほざいてなさい」

 2人は店の表側に回りこみ、それぞれが店主に1万円札を渡した。店主が着ているTシャツの背中には龍の絵柄がプリントされている。リュウジさんだ。短く刈り込んだ頭を掻きながら、リュウジさんはそのお金を受け取った。

 「今日はこれで店じまいか……」

 足元の道具箱から、黒いポイを取り出し、2人に渡した。裏ポイ師同士の決闘……一体どんなことが起こるんだろう? ヤザワさんは、店にとってやっかいなことになると言ってたな。リュウジさんも、今日はこの2人の決闘のために、店を閉めるようだ。幟旗や、一般人向けの道具を片付けながら、俺に気づいて声を掛けてきた。

 「おう、タカシくん。とうとう廃人の仲間入りか?」

 「あ、いや、たまたま巻き込まれちゃった感じで……」

 「そりゃ巻き込まれるだけの素質があるってことだろう」

 「そ、そうなんですかね……へへ」

 中途半端な笑いで返事をするしかない。そんなやり取りをしている間に、アケミとタカダは水槽を挟んで対峙していた。すでに決闘は始まっている。2人とも静止しているが、その間には、目に見えそうなほど張り詰めた緊張感が漂っている。

 先に動いたのはアケミだった。だが、いつ動き出したのかはわからない。気づいたら動いていた。さっきと同じように、ポイを垂直に潜らせる。今度は出目金ではなく、姉金が3匹寄ってきた。まさか、最大クラスの姉金を一度に3匹? さっきの出目金とはわけが違うぞ。そう思ったが、彼女ならやってのけるはずだ。今日一日で、すでにシンジとアケミの技を目の当たりにした俺は、裏ポイ師たちの底知れぬ力を、肌で理解し始めていた。

 「ィックシ!」

 姉金が、まさにアケミのポイに入ろうとした瞬間、それまで動きのなかったカネダが、突然小さなくしゃみをした。その声に驚いたのか、集まっていた姉金はくるりと体を翻して、散り散りになってしまった。

 「あいつのくしゃみから繰り出される飛沫にはな、金魚が嫌う成分が混じってるんだ」 いつの間にか俺の横に立ったリュウジさんが、おもむろに解説を始めた。

 「金魚が嫌う成分……ですか?」

 「ああ。しかも、狙ったポイの周辺だけに、ピンポイントで飛沫を飛ばせるんだ」

 「なんですかそれ……」

 「その証拠に、アケミのポイに集まってた姉金だけが驚いてたろ?」

 「そういえば、他の金魚は普通に泳いでましたね」

 「あいつはあのくしゃみで、何人もの廃人を、本物の廃人にしてきたのさ」

 そんな汚い特殊能力が……そんなのありなのか?あれじゃいつまでたっても金魚がすくえないだろ。まさか……それが狙い?

 「今度はカネダが動いたぜ」

 リュウジさんの声で我に返ると、カネダがポイを構えていた。ポイを顔の前にかざし、背筋を伸ばして、フェンシングのような構えだ。まったく気障ったらしい。ますますいけ好かない。その構えから、ゆっくりとポイを水面に近づけていく。上体を屈め、ポイを持たない左手のほうは斜め上に掲げている。手のひらは上向きだ。もうフェンシングでもない。単なる変なポーズだ。あのポーズから、どんな技が繰り出されるんだ……。

 俺の期待を裏切るように、カネダの右手はついと伸び、何の変哲もない動きで、ポイを水面下にもぐりこませた。その先にいたのは、四色まだらのキャリコ琉金が一匹だけだ。シンジやアケミのように、複数の金魚を一度にすくうスタイルではないらしい。しかし、キャリコ琉金を泳がせる金魚すくい屋なんて、まずいない。たとえワケありの個体でも、小金に比べればずっと割高な琉金をわざわざ仕入れるのは、割に合わないからだ。

 「いい琉金だろう?」

 リュウジさんが自慢してくる。確かに、自慢できるレベルの金魚だけど、これで商売が成り立つのか? 裏ポイ師専用に用意した金魚なのだろうか?

 「俺だってちゃんと商売はしてるよ。あいつらの勝負は、すくった金魚の合計金額で決まるんだ。だから、ああいう高い金魚を狙うのも、ひとつのやり方だな」

 「安い金魚でも、たくさんすくえばポイントが高いわけですね」

 「そういうこと。ま、実際はそんな単純なもんじゃないけどな」

 そんな会話を交わしている間も、カネダのポイは琉金を追いかけてうろうろしている。こいつ、本当はヘタなんじゃないのか? あの構えは、実力の低さを隠すハッタリか? しかし、何かがおかしい。逃げる琉金の動きが、あり得ないほど直線的なのだ。方向転換は常に、左右どちらかへ直角に折れる。そのタイミングは不規則で、まるで迷路の中を進んでいるようだ。俺の疑問に答えるように、また横からリュウジさんがささやく。

 「アケミのラビリンスだ」

 「ラビリンス?」

 アケミを見ると、小さく口を動かして、何かを呟いているように見える。

 「あいつは、人間の耳に聞こえない周波数の音波を出して、琉金を操っているんだ。操られた金魚の動きが、まるで迷路の中を彷徨っているように見える。あの技がラビリンスと呼ばれる所以だ」

 なるほど……また相手の妨害か。 金魚をすくう技を競うんじゃないのか?妨害する技を競うのが、裏ポイ師の決闘なのか?

 「これって……単なる邪魔のし合いじゃないですか」

 「そう見えるか?」

 「え……ええ、まぁ」

 「その通り」

 その通りかよ。何のひねりもないよ。俺がイメージしてたのは、もっとこう、華麗なすくい技を、激しく応酬する決闘なんだけどな。

 「もっと派手な決闘をイメージしてたか?」

 この人はいちいち人の心を読んでくるな。裏ポイ師よりよっぽどすごい能力だ。

 「そういう決闘を見たけりゃ、駆け出しの裏ポイ師を探すんだな」

 「駆け出しの……?」

 「派手な技の応酬はな、まだ未熟なやつらが見せるもんだ。あいつらクラスの達人になると、端から見てるだけじゃ、地味で退屈な戦いになるのさ。それはもう、必然てやつなんだ」

 「どうしてそうなるんですか?」

 「達人てのはな、すくえて当たり前なんだよ。素人が見たらすごい技術でも、あいつらにしたら、金魚をすくうのに“技術”がいるなんて意識はないんだ。金魚をすくうってことは、あいつらにとって、俺たちが歩いたり走ったりするのと同じ感覚だからな。だからすくう技を極めた後は、いかに相手を妨害するかが決め手になるんだ」

 言われてみれば、確かにそうかもしれない。素人が見てわかることなんて、達人の凄さのほんの上っ面だけってことか。つまり、おれはまだ素人に毛が生えた程度のレベルなんだな……。そんなことを考えて、少しがっかりしてる間に、決闘は新たな局面に突入していた。

 なぜか、アケミが眉根に皺を寄せ、苦しそうに肩で息をしている。

 「何があったんですか?」

 「アケミのラビリンスは、普通の人間じゃ出せない声を出す技だ。横隔膜と声帯にかなりの負荷がかかってるだろう。あまり長時間繰り出せるもんじゃない」

 カネダはすでに3匹のキャリコと、2匹のピンポンパールを桶に入れている。対してアケミは3匹の姉金だけだ。この短時間に、どれだけの攻防があったのか……カネダは余裕の表情を見せながら、アケミのラビリンスから解放された金魚たちをすくっていく。敗色濃厚なアケミは、それでも必死に金魚をすくおうとポイを振るうが、カネダのくしゃみに阻まれて数を稼げずにいる。

 「ンフッフフ……あなたの技はすでに解析済みです。短期決戦型の技で私に勝とうなどとは、少々考えが甘かったようですね」

 カネダは勝ち誇った表情でアケミを見下ろしている。腰を落としたまま、荒い息をしていたアケミは、上目遣いにカネダを睨みつけていたが、やがてスックと立ち上がると、スカートのポケットからマスクを取り出した。不織布でできた、よくある使い捨てのマスクだ。それを顔に掛け、鼻の部分のワイヤを押さえて密着させる。

 「おや……もうあきらめたんですか?マスクをしてしまっては、あなたの得意技が使えませんよ?」

 アケミは無言でポイを構え、再び金魚をすくいにかかった。カネダがアケミの動きに追随してくしゃみを放つ。が、アケミがすくおうとしていた姉金は、アケミのポイに吸い込まれるように動き、そのまま桶へと運ばれていった。カネダは一瞬いぶかしげな表情を浮かべたが、アケミが次の姉金を狙うのを見て、またくしゃみを放った。しかし次もまた、姉金はアケミの桶に収まった。

 「なぜ……何をしたんですか?そのマスクに秘密がありそうですが……」

 「そうね。また解析したら?」

 「フ……そうさせてもらいましょう」

 そう言ったものの、カネダは次第に余裕を無くし、アケミの桶の姉金は着実に数を増していった。