第二章
複雑に入り組んだ形をした池の岸辺に、蓮が群生している。大きな葉の間から、いくつかの花が大輪を咲かせていた。蓮の群生の間を通って橋がかけられ、その端に東屋が建てられている。そこに二人の男が立って、池を眺めていた。見事な刺繍の施された、ゆったりした服を着て、冠を頂いた老人が一人。年は60を越えていそうだ。白髪交じりの立派な髭をたくわえている。もう一人は鳶色の僧服を着て、きれいに剃髪している。こちらは冠の老人よりかなり若く、息子ほどの年に見える。
「降魔の槍……伝説に過ぎぬと思っていたが、実在するとはな。にわかには信じがたいことだが、我が皇帝家の伝承と関わりがあると言うのなら、間違いないのだろうな。だとすれば、すぐにでも兵をまとめてガンダーラへ派遣したいところだが……」
老人は池を眺めながら、僧服の男に向かって話している。彼の名は太宗という。大陸の東方に位置する国“唐”を統べる皇帝である。
「はい。あらゆる文献を調べ上げ、現地での調査も行いましたので、槍の存在については、ほぼ確証が取れております。かねてより建立を進めて参りました四神の門も、作業を急がせます。間もなく完成するでしょう」
「四神の門も無駄にならずに済んだわけだな」
「ただ、槍の存在が表沙汰になれば、国内はもとより、近隣の国々でも槍を手に入れようとする動きが活発になることは間違いないでしょう。それはなんとしても避けねばなりません。」
皇帝と話している男は、恵岸という僧である。
唐では仏教が盛んであり、僧は国政において重要な地位を占めている。恵岸はその中でも特に皇帝の信頼が厚い。仏教のみならず、古くからこの地域に浸透している陰陽思想に造詣が深く、民間信仰にも精通しているからである。この国で仏教が栄えたのは、そのように土着の信仰を吸収しつつ勢力を拡大していったためだと言われている。
「表立った動きが取れない以上、隠密裏に事を進める必要があります」
「そういうことになるな。何か策はあるのか?」
「はい。表向きの名目は天竺への取経という形をとり、三蔵の官位を与えた僧を、ガンダーラへ向かわせるのです」
「うむ、なるほどなぁ。天竺のありがたい経文ならば、妖怪どもを退けられるというわけか。しかし、坊主のおまえが経文よりも降魔の槍の力を頼るとはなぁ」
「坊主ゆえ、なおさら経文の限界をも知っております」
「皮肉なものよ。で、おまえの下にそのような任を受けられる僧が……」
太宗皇帝は言いさして、ふとあることを思い出した様子で恵岸を振り返った。
「そうか!玄奘だな?あやつしかおるまい」
「はい。監視役として配下の者を同行させれば……」
「その前に、あの“鬼坊主”がこの話に乗るかのう?」
「すでに手は打ってあります」
顎鬚を撫でながら、太宗皇帝はすこし不機嫌そうな表情を見せた。
「ふん、いつもながら手回しの早いやつめ。このわしに話を持ってくる前から動いておるとはな。おまえなら、あやつを手のひらに乗せることも無理ではないのだろうな……」 わずかに声を低くして、真剣な表情で恵岸が言う。
「我々は神をも手のひらに乗せようとしているのです」
「はっはっは……坊主一人動かすくらいは造作もないというわけか。しかしあやつは下手をすれば、神よりもやっかいかもしれんぞ?」
「承知しております。古い付き合いですから」
恵岸は少し表情を和らげ、微笑みながら答えた。