心は空気で出来ている

空気を読むな、呼吸しろ。

西遊奇 -1-

第一章

 漆黒の空に、触れたら切れそうな、鋭い三日月が浮かぶ。

 夜風が黒々とした竹林を撫で、竹の葉や枝が擦れ合う音があたりを包んでいた。

 竹林の隣に、大きな中華風建築の屋敷がある。その一室に、長方形の食卓を挟んで、中年の女とその娘らしき少女、向かい側にはひとりの男が座っていた。女は30代半ば、娘は10代の前半くらいだろうか。女よりいくつか若く見える男は、茶をすすりながら本を読んでいる。女はテーブルの上で組んだ指を落ち着かない様子で動かし、娘は不安げな面持ちで、ときおり母親の顔を見上げている。

 テーブルには彫刻の装飾がついており、その上には上品な茶器が並んでいる。それらの調度品は、この家が裕福な家庭であることを示していた。女と娘の着ているものも、艶のある絹織物の服で、美しい刺繍が施されている。

 ただ、二人の向かいに座っている男は、それらの裕福で上品な雰囲気とは明らかに異質だった。生成りの木綿でできた、袖なしの質素な服。長髪を後ろで束ねた頭、そしてしなやかな筋肉に覆われた見事な体躯。その眼に宿る光は、決して威圧感があるわけではないが、裕福な家庭で平和に暮らす人間のものではなかった。

 「ギャアァァァゥゥ……」

 突然、家の奥から獣のような叫び声が聞こえてきた。

 女の体が、恐怖でわずかに跳ね上がった。怯えた表情で、隣にいる娘を抱き寄せる。

 「はじまったか」

 本から目を離さないまま、男がつぶやく。

 女の怯え方とは対照的に、昼下がりのお茶でも楽しんでいるかのような落ち着きぶりである。

 「玄奘さま……あ、あれは一体何なのでしょうか?」

 縋るような目で、女が問いかける。

 「妖怪の一種だよ。昨夜あんたも見たとおりの……まぁ、化物だな。」

 玄奘と呼ばれた男は、読んでいた本を机に置きながら答えた。

 立ち上がると、男の身長は6尺(約180cm)ほどで、太い筋肉が皮膚の内側に束ねられている。しかしゴツゴツしているわけではなく、しなやかに鍛え上げられた実践的な身体である。その身体を、見えない圧力がさらに覆っているようだった。

 「しかし、単なる悪戯であれが取り憑いたとは思えんな。何か理由があるはずだが」

 「そういえば、2,3日前に、珍しい物を手に入れたと申しておりました。あの槍なのですが……」

 そう言って、部屋の隅に立てかけられた、いかにも古びた槍を指差す。

 「主人はたしか、“ごうまの槍”と言っておりました。西方のガンダーラという国に伝わる秘宝とか」

 女の夫は貿易商を営んでいる。近頃、この地方で妖怪が頻繁に出没すると聞き、仕事のルートを使って取り寄せたのが、“降魔の槍”である。達磨大師が法力を封じ込めたというその槍には、あらゆる魔を退ける力が秘められているという伝説がある。

 「魔を調伏するという、降魔の槍か・・・それを持っていて妖怪に憑かれるとはな。  偽物を掴まされたってことか。まぁ、本物がこの世にあるかどうかも怪しい代物だ。それにしても……」

 「ガァアァァァ!」

 再び獣の声が響く。

 「・・・まぁいい。本当の理由はあとでヤツ自身に聞くさ」

 椅子から立ち上がる玄奘に女が声を掛ける。

 「あの・・・主人は、元に戻りますでしょうか?」

 「おれの見立てでは、それほどやっかいなものじゃない。すぐ終わるよ。」

 それまで口をつぐんでいた娘が、突然声を発した。

 「お、お父さんを助けてください!」

 玄奘は少し驚いた表情で、娘の顔を見つめ、無言で不敵な笑みを浮かべると、獣の声がする別室へと向かった。

 獣の声がする部屋の扉を開けると、男が椅子ごと柱に縛り付けられていた。頭を垂れてうめき声を漏らしていたが、やがて顔を上げ、玄奘をにらみつけた。その顔はすでに人間のものではなかった。瞳孔が縦に割れ、唇の端からは鋭い牙が覗き、先の尖った舌が、長く垂れ下がっている。柱の側には小さな机があり、その上には手のひらほどの大きさの紙が数枚と、墨と筆が置かれていた。男の頭上の柱には、梵字を書いた札が貼られている。

 「ぐウゥ……コノ、縛を……解けぃ……」

 口からはみ出した牙と、垂れ下がった舌のせいで、まともな発音ができていない。

 玄奘は男の異様な形相を意に介する風もなく、当たり前のように返答する。

 「解いて欲しければ、この男を解放するんだな」

 「ぐふフ……コノ男の欲は強い。オレには心地ヨイ依り代。簡単に手放スものカ」

 男に取り憑いている何者かが、人語を発するのに適していない口で、無理やりに言葉を吐き出す。

 玄奘は腕を組んで、少し間を置いた。

 「それなら、力ずくということになるぞ?」

 「キサマごときがオレを力ずくでどうこうデキルと思ウか」

 「そのつもりだが?」

 こともなげに言う。

 「図に乗るなヨ小僧……」

 「まあ、見てな」

 男の足元の床に、梵字の書かれた札を置き、小さく口の中で呪文を唱え始めた。柱に貼り付けた札と、床に置かれた札の間に白い光が走り、男の額を貫く。

 「ぐヌ……オのれ」

 玄奘は自分の髪の毛を一本引き抜き、右手の人差し指と中指の間に挟むと、その指先を男の額に立てた。

 「ふんッ!」

 気合を込めると、男の額を貫いていた光は消え、札に書かれているものと同じ形の梵字が、光となって額に浮かび上がった。

 「ア……が……」

 ほんの数秒で、男は眼を見開いたまま硬直し、ぴくりとも動かなくなった。

 玄奘はおもむろに男を縛り付けていた縄をほどくと、椅子から抱え上げ、少し離れた床に寝かせた。男の胸に手をあて、鼓動を確かめる。

 ところが、男が下ろされたはずの椅子のほうには、まだ何かが座っていた。その姿は人ではなく、全身を毛で覆われ、犬のような顔をした妖怪であった。額に浮かび上がった梵字が、まだ鈍く光を発している。

 「さて、仕上げといくか……」

 「ま、まて……」

 「ほう、その状態でまだ口が利けるのか」

 言いながら、右手のひらに墨で文字を書き始める。妖怪の額に浮かんでいるものとは別の形をした梵字である。それを妖怪の額にかざすと、呼応するように額の梵字がうねりはじめた。

 「あがっ……か……」

 妖怪の口が鋭い牙を見せて大きく開いた。眼球がぐるりと上を向き、白目がむき出しになる。その直後、額の梵字がまばゆい光を放った。

 「むっ!?」

 玄奘は思わず左手で眼をかばう。光はすぐに消え、うっすらと目を開いたその時、背後から声がした。

 「噂以上のやり手だな」

 振り返ると、部屋の入り口のすぐ外の暗がりに、今まで椅子に縛られていた妖怪が立っていた。緑色の光を放つ双眸が闇に浮かび、玄奘を見つめている。

 「今宵は楽しませてもらった。いずれまた会おう」

 それまでの不完全な発音とは違う、流暢な言葉だった。

 その姿がふっと闇に溶け込み、妖怪の気配は完全に消えてしまった。

 「ふん……試されたってことか」

 

 「あなた!」

 今しがた妖怪がいたその場所に、心配のあまり別室から駆けつけた女が立っていた。床に寝ている男に駆け寄り、ひざまづく。娘は部屋の入り口で半身を覗かせて、不安げにその様子を見ている。

 「気を失ってるだけだ。朝には気持ちよく目覚めるさ。ここ何日かの記憶はないと思うがな。もう旦那が夜中に化けることはないはずだ」

 「あ、ありがとうございます!」

 女は目に涙を浮かべながら、深々と頭を下げた。

 娘は母親の元へ駆け寄ると、玄奘に微笑みかけた。

 「ありがとう、おじさん」

 「ああ」

 玄奘は娘に笑みを返しながら、柱と床に貼り付けてある札を見た。

 札は、焼け焦げてボロボロに崩れていた。