2.1万円のポイ
結局、今日の戦果は小赤5匹、出目金3匹、琉金3匹、ピンポンパール1匹だった。最後のピンポンパールは遊びのつもりだったが、まん丸の体型を攻略するのは新鮮で、意外に楽しめた。
「兄ちゃん、また腕を上げたな?」
「いえ、まだまだです」
「謙遜けんそーん!6号で10匹以上揚げるやつは滅多にいないぜ?」
「ありがとうございます。今日もリリースでお願いします」
「ほーっ、ありがたいねぇ。まぁ兄ちゃんくらい数こなしてるやつが、いちいち持ち帰ってたら大変だわな」
リリースとは、すくった金魚を持ち帰らず、そのままタライに戻すことだ。金魚すくいは金魚を獲ることが目的じゃない。ポイを通して金魚と遊び戯れ、駆け引きを楽しむことだ。そんな俺も、金魚すくいを初めた頃は全部持ち帰っていたが。お袋からいい加減にしろと言われて持ち帰るのをやめたのだ。すくった金魚を持ったまま考え込んでいた俺に、リリースという制度を教えてくれたのもヤザワさんである。
そのヤザワさんの顔が、いつもの笑顔から真剣な顔つきにがらりと変わった瞬間を、俺は見逃さなかった。すっと目が細められ、初めて見る怖い光がヤザワさんの目に点った。
「ようシンジ、今日はまたずいぶんと早い登場だな」
いつもの口調だが、俺と話す時とは微妙にトーンが違う。ヤザワさんの視線を追って、俺の右隣を見ると、そこに立っていたのは、銀縁の丸いメガネをかけ、ゆるいくせ毛を無造作に遊ばせた頭をポリポリ掻いている、痩せ型の男だった。
あいつだ。3年前、俺の目の前で信じられない技の数々を繰り出したあの男。間違いない。あの時と同じ、派手なアロハにカーキ色の七分丈カーゴパンツ、そして白い鼻緒の下駄履きという、よくわからないファッション。シンジと呼ばれたその男は、のんびりした口調でヤザワさんの言葉に答えた。
「うん、今日は予想外に時間が空いちゃってさ」
銀縁メガネの奥の眼は、レンズに反射した光が邪魔をして見えない。ん? いや、違うぞ。レンズの部分は白いが、光の反射じゃない。あれは……紙だ!ポイと同じ紙をメガネのレンズ部分に貼り付けてやがる!あれじゃ何も見えないだろ。少しは透けて見えてるのか? なんなんだあのメガネ。あんなの売ってるわけないよな。まさか、自分で作ったというのか……なんてダサイんだ。
妙なメガネに幻滅を感じている俺の目の前で、シンジはカーゴパンツのポケットから、細かく折り畳まれた1万円札を出して広げると、ヤザワさんに渡した。受け取ったヤザワさんは、その1万円札をレジ代わりの缶ではなく、自分の胸ポケットにしまった。そして自分が腰掛けていた木箱の下から、黒い枠のポイを出してシンジに渡した。黒いポイなんて初めて見る。ヤザワさんはさらに、露店の電灯と、エアポンプに電源を供給している発電機の後ろから、黄色い桶を出してきた。銭湯によくあるというケロリンの風呂桶だ。俺は銭湯に行ったことがないので、実物を見るのは初めてである。ヤザワさんは、1万円のお釣りを一向に渡す気配がない。シンジも要求するつもりはないようだ。まさか、1万円分の金魚すくいをやるって言うのか?
黒いポイは、見たところ緑色の6号よりさらに薄い。おそらく7号だろう。常人ならばほぼ一匹もすくえずに終わる、超破れやすいポイだ。にもかかわらず、あのケロリンの風呂桶。7号のポイで、俺がいつも使うアルミのボウルよりも多くの金魚をすくえると言うのか? 有り得ない。常識で考えればそうなる。しかし、シンジの技は、楽に常識を超えている。三年前、初めてヤツを見たときは、その技の凄さ、華麗さに驚くあまり、どんなポイが使われているか、どんな器を持っているかなど、全く気にしていなかった。気にする余裕もなかった。当時の俺は、金魚をすくうあの網が、ポイという名であることすら知らない、ずぶの素人だったのだ。
俺の疑問や驚きをよそに、シンジは水槽の前にしゃがみこんで、品定めするように金魚たちを眺めている。立ったままの俺からはヤツの表情は見えないが、何やらウキウキとリズムに乗るように、体が小刻みに揺れている。その手がおもむろに持ち上がり、ポイを構えたと思ったときには、すでにポイは水中に潜り込んでいた。小金が群れるその下へ滑り込んだポイは、瞬く間に5匹の小金をケロリンの風呂桶へと運んでいた。一度に5匹? 7号のポイだぞ。俺は自分の目を疑った。しかし、たったいま目の前で起きたことを、俺の脳はくっきりと記憶していた。
小金の群れにポイが入り込み、水面へと持ち上がる瞬間、小金たちはポイから逃れようと群れを散らした。その動きが偶然、5匹の小金からなる輪を作り出し、それがポイの枠の大きさと見事に一致した。そのままポイが持ち上がり、枠の上に5匹の小金を載せたまま水面を割り、空中へと躍り出たところにケロリンが待ち構えていたのだ。その一連の動作が、実に滑らかに、淀みなく、まるで日常生活の中で毎日繰り返す習慣のように、当たり前に行われていた。
三年前の俺なら、何が起きたのか全く理解できなかっただろう。だが、シンジの技を目指して修練を積んだ俺の目は、その切れ目のない、滑らかな動作の全てを、逃さず捉えていた。しかし、一体なぜそんなことが可能なのか?どんな修練があれほどの技を実現せしめているのか? それはわからない。今の俺では、ただ動きを目で追うのが精一杯で、それ以上の洞察には至らない。だが、今はまだそれでも十分だ。少なくとも三年前よりは進んでいるのだから。
そんなことを考えている間に、シンジの桶はみるみる金魚で満たされていく。黄色いケロリンの桶は、小金の鮮やかな赤で彩られていた。なぜだろう? シンジがすくっているのは全て小金だ。一番サイズが小さく、すくい易い品種の金魚。大物のランチュウやリュウキンには目もくれない。出目金や姉金にすら手を出さない。むしろ避けているようにすら見える。俺と同じように、ウォーミングアップをしているだけなのか? それとも何か他に理由でもあるのだろうか?そう思っていると、シンジがヤザワさんに質問した。
「ヤザワさん、ゲンさん来てたの?」
あ、この人やっぱりヤザワさんて呼ばれてるんだ。本名なのかな?
「ははっ、よくわかったな。まだ会場が空くまえに少し遊んでったよ」
「あの人も好きだねぇ。相変わらず小金は嫌いらしいね。他のはみんなツバついてる」
「なるほど、それで小金ばっかりすくってたわけか。別にいいじゃねえか。人それぞれ好き嫌いはあるわな」
「ま、そうなんだけどさ。あからさまだなぁと思ってね。人のツバついた金魚はすくう気にならないんだ。今日はこれで河岸変えるよ」
「そうか。リュウジんとこか?」
「正解。んじゃまた」
「あいつんとこは、今日あたりアケミが来るかもしれないぜ」
「うぇ……なるべく顔合わさないように気をつけるよ」
「そう避けてやるなよ。あんないい女に絡まれるなんて、うらやましい限りだぜ」
「あはは、この世界にどっぷり浸かってるヤツに、マトモなのはいないよ」
「ははは……そりゃそうだ。おまえやアケミを見てりゃよくわかる」
「そういうこと。そいじゃまた」
そんなやり取りを交わして、すくった小金を全て水槽にリリースすると、シンジはヤザワさんの店を出て、人ごみの中へ消えていった。俺は、シンジに聞きたいことが山ほどあったが、緊張のあまり声を掛けることもできずに、しばらく立ち尽くしていた。
ふっと我に返った俺は、シンジに聞きたかった色々な疑問を、ヤザワさんにぶつけた。
「あ、あの……今の人何者なんですか? 俺、あの人の技を見てから金魚すくいにハマったんですよ」
「へぇ、あいつの技を見てねぇ……兄ちゃん、悪いこたぁ言わねぇ。あいつの後を追っかけんのは止めときな。あんたまだ若いんだ。真っ当な人生を歩きなよ」
「いや、でも……俺、あの人の技に憧れて、ここまで腕を磨いてきたんです。あの人の技に少しでも近づきたくて……だから、お願いします!」
なんだ? どうしたんだ俺は? 顔見知りとはいえ、年に数回、金魚すくいの露店で顔を合わせるだけの人に、必死で頭を下げてる。こんなに熱くなって、ありのままの思いをぶつけてる。俺はそこまであの男――シンジの技に惚れてたのか?いや、いや違う。技に惚れたのも確かだが、それ以上に、金魚すくいの奥の深さに惚れたんだ。さっきのシンジの技――あいつにとってはウォーミングアップ程度でしかない技――を見て、俺の思いはますます強くなったんだ。
「おいおい、兄ちゃんやめてくれよ。んなことしてたら、客が寄りつかねえよ……ったくしょうがねえな。教えてやるから、頭上げな」
「ありがとうございます!」
頭を上げると、ヤザワさんはあの渋い笑顔を少し歪めて、ますます渋い表情で俺の顔を見上げていた。俺は、この人なら俺の思いを正面から受け止めてくれると、心のどこかで感じていたのかもしれない。
「あいつは……シンジはな、金魚すくいに取り憑かれた廃人さ。そろそろ三十に手が届こうって年のはずだが、定職には就かねぇ、女は作らねぇ、寝床すら定まっちゃいねぇ。国中ふらふらしながら、寝るとき以外……いや、寝てるときでさえ金魚すくいのことしか考えてねぇようなバカなのさ。この世界にゃ、ああいうバカがたまにいるんだよ。そん中でも、シンジは飛びぬけたバカの部類に入るがな」
「シンジさんの他にも、同じような技を持った人がいるんですか?」
「困ったことにな。あいつらみたいな廃人のことを、俺らの業界じゃ“裏ポイ師”って呼んでるよ。まぁ、金さえ払ってくれりゃ、どう遊んでもらっても構わないんだけどね。ただ……」
「ただ?」
「たまに裏ポイ師がガチ遭うと、面倒なことになるんだよ。滅多にないけどね」
「……一体、どんなことになるんですか?」
「それは、口じゃなかなか説明し難いんだよな。兄ちゃんも、シンジの技を見たならわかるだろう?」
確かに、あんなレベルの技で、お互いに金魚すくいを競うことになったら、具体的に想像はできないが、何かとんでもないことが起こりそうな気がする。たぶん、店を開いてる側にとっては迷惑な展開になるんだろう。しかし……見てみたい。俺は胸が高鳴るのを感じた。
「シンジさんの前に誰かがここで金魚すくいをやってたそうですけど」
「ああ、ゲンさんな。ここの寺の住職だよ。施餓鬼会が始まる前に、ちょっと遊んでったんだ。あの人も裏ポイ……さっきシンジが使ってた黒いポイを使えるが、あくまで遊びだよ。ちゃんと本業があるからな」
ここの寺の住職……って、同級生の親父じゃないか。そういえば僧名がゲンシュウとか言ってた気がするな。そんな近いところにシンジと接点のある達人がいたとは。
「シンジさんは、なんでそのゲンさんがここで金魚すくいをやってたことがわかったんですか?」
「さぁなあ……?あいつら廃人は、なんでか知らねぇが、他人が一度でもすくった金魚は一目でわかるんだよ。何が見えるのか、俺にはさっぱりわからんがな」
なんだろう……オーラみたいなものが見えるのか?
「そういえば、さっきシンジさんと他の誰かが顔を合わせるとかって……」
「ああ、今日は隣の町内も中学校で盆踊りをやってるんだが、知り合いのリュウジって同業者がそこで店を出してるんだ。そっち方面で、アケミっていう女の廃人がウロウロしてるらしいから、気をつけろって話をしてたのさ」
「リュウジって……もしかして、いつも背中に龍がプリントされたTシャツを来てる人ですか?」
「そうか、兄ちゃんもあちこち回ってるから、あいつの顔は見たことあるだろうな」
この業界はわかりやすい人が多いのか? リュウジだから龍のTシャツ。それとも龍のTシャツを着てるからリュウジなのか? まあそんなことはどうでもいい。隣の町内の盆踊りといえば、栗ノ葉中学校に違いない。今からGoldenFish号を飛ばせば、徒歩のシンジより早く会場に着けるはずだ。
「ヤザワさん、ありがとうございました!」
俺は頭を下げると、早足で人混みを掻き分け、Goldenfish号を目指した。