心は空気で出来ている

空気を読むな、呼吸しろ。

初めての凧揚げ

あれは、去年の師走、冷たい風が強く吹く、寒い日だったね。

 君は、初めて買ってもらったキョウリュウジャーのカイトを揚げたくて、朝からうずうずしてた。なにしろ、君の人生で初めての凧揚げだったからね。

 君はまだ、キョウリュウジャーのプリントされた三角のビニールが、どんな楽しさを与えてくれるのか知らなかった。でも、それが楽しいものだと確信していることを、君の瞳の輝きが教えてくれていた。

 凧揚げで遊ぶには幸いなことに、僕らの家はそこそこ田舎にあって、少し歩けば田園地帯に出られる。そこには凧がひっかかりそうな電柱や電線はなく、大きな木も生えていない。見渡す限りの田んぼだ。君は早く凧揚げをしたくて、僕の前をどんどん歩いて行った。その時の君は、まだ凧揚げがどんなものかも知らなかったのにね。

 この辺りでやってみようか。僕が声をかけると、君は本当に満面の笑顔で振り向いて、僕の傍まで戻ってきた。凧を組み立てている間、君は期待のあまりぴょんぴょん飛び跳ねていたよね。

 凧を組み立て終わって、糸をつけて、少しだけ凧を風に乗せてみた。僕も凧揚げなんて久しぶりだったから、うまく揚がるかどうかわからなかったけど、凧はあっけなく空に揚がっていった。

 君はすぐに自分でやってみたくなって、糸巻を渡してくれとせがんだね。風が強かったから、あまり糸を出すのは不安だったし、君には難しいと思ったから、最初はほんの数メートルだけ糸をのばしてた。君は糸巻を持って、ただ立っているだけだったけど、凧は面白いほど風に乗って踊ってた。

 でも、しばらくすると君はその状態に飽きて、もっと糸をのばしてみたいと言い出した。君の求めに応じて、少しずつ糸をのばしていったけど、結局全部糸を出すことになった。空高く揚がって、小さくなった凧を見て、君は興奮気味に手を動かしたり、軽く跳ねたりしてたね。

 君はなぜか、糸巻を指先にひっかけるようにして軽く持ってたから、僕は何度も君に注意したよね。しっかり持っていないと、糸巻ごと凧が飛んでいってしまうよって。その都度握りなおすんだけど、君はすぐ気を緩めてしまうんだ。

 糸を全部出し切って、凧が高く揚がって、もうそれ以上の変化はなくなってしまった。ただ立って凧を見ているだけの状況に、君はすぐ飽きて、遠くに見える高速道路や、田んぼの中をうろつくカラスに気を取られてたね。僕自身、もう飽きていたのかもしれない。君が指差すものに気を取られて、つい油断してしまったんだ。

 ふと視線を戻すと、君の手に糸巻がなかった。とっさに状況を理解した僕は、飛んでいく凧と、それにつられて地面をかすめるように走っていく糸巻を必死で追いかけた。君を置き去りにすることに、若干の不安は感じてはいたけど、気がついたら走り出してたんだ。突然走り出した僕を見て、君は何を思っていたのかな。置き去りにされたことに、不安は感じていたのかな。何が起きたのかを理解していたんだろうか。

 およそ50メートル以上も全力疾走して、でこぼこした田んぼの土に足を取られながらようやく糸巻に追いついた僕は、君が追いかけてきていないか、不安で泣き出していないかと思いながら振り向いたんだ。でも君は、僕が走り出した場所から一歩も動いてなかったね。

 不安定な地面を、全力で走るなんて、日常生活でそうそうあることじゃない。僕は君が立っている場所に向かって歩きながら、左足首に少し違和感を感じてた。いや、捻挫っていうほどのものじゃないんだ。ただちょっとひねっただけ。もうそんなに若くもないし、無理はきかないもんだな、なんて心の中で苦笑いしてたよ。

 僕は荒い呼吸を繰り返しながら、君に近づいていった。君は手をのばしたり、足を曲げたりして、妙な動きをしていたよね。僕には、それが何の動きなのかわからなかった。ただ、君が不安そうな顔をしたり、泣いたりしていないのがわかって、少しほっとしたんだ。同時に、全く僕のほうを見ず、夢中で妙な動きを繰り返す君に、少しがっかりもしていた。君が手放してしまった凧を、必死で追いかけて捕まえてきたっていうのに、君は全く気にしていないみたいだったからね。

 さらに近づくと、君が何か口ずさんでいる声が聞こえてきた。風の音がうるさくて、近づくまで聞こえなかったんだけど、数メートル手前まで来て、やっとわかった。君は踊ってたんだね。君の大好きなきゃりーぱみゅぱみゅの「ファッションモンスター」を歌いながら……

 僕は君の目の前で、膝から崩れ落ちて、腹を抱えて笑ったんだ。この状況で、ひとりでファッションモンスターを歌いながら踊るって、どういうことなんだよ。君のあまりの自由さ加減に、笑うしかなかった。膝をついて笑う僕を見ながら、君はまだファッションモンスターを踊ってたよね……